北方水滸伝に代表される彼の歴史小説の重要な特徴として、戦争の要が兵站にあるということを物語に溶け込ませている点がある。
物語はそこから目を逸らさないのである。
軍馬、食料、兵の補給が途絶えれば、戦は終わってしまう。
そしてその兵站線が伸びきってしまえば、敵は容易にそれを分断し、略奪する。
水滸伝に至っては軍資金の源としての『闇塩』が本拠地・梁山泊の核であるし、それぞれの砦では糞尿の始末にまで触れている。
考えてみれば何万もの兵が移動し、寝食を繰り返す。食があるならば当然排泄もあるわけで。
この感覚を娯楽文化に馴染ませることには意味がある。
戦争を非常時と捉えれば、その概念は災害にも活かせるはずなのだから。
先の大戦で問題となったのが、兵站だった。
東アジア全体に伸びきってしまった兵站線が、数々の悲惨を生んだ。
そしてその事実にきちんと向かいあってさえいれば、単なる反戦平和の大合唱で戦後のお茶を濁すことも無く、経験は震災に活かせたはずではなかったのか。
他でもない、阪神淡路大震災で大きく取り沙汰され、東関東大震災でも問題となったのが補給と排泄の問題であった。
その感覚を頭ではなく、肌身に浸透させることにエンターテイメントは効果的で、その役割は大きい。
かつて何度かここで記したが、Narutoの描く大戦にその概念が欠落している『罪』は小さくないと思う。
いや、あれは漫画だから。
という蔑視は、あたしゃしないからね。
それを読む己を自虐してしまう。
ともかく北方作品の漢(おとこ)たちがやけに人間臭いのは、それらライフラインあってのニンゲンとして存在しているからだろう。
飲み、食べ、女を愛する喜び。
それあってこそ彼らは人生を賭けるのだろうし。
賭けてこそ、飲み、食べる喜びがあるのだろうし。
苦しむのだろう。
生き様や名台詞にばかりスポットがあたるが、それあってこそだ。
さて、今日から下巻に。
☾☀闇生☆☽