松本人志の映画から、映画を感じないという人はいるでしょう。
その善し悪しは別として。
それを新しさと呼ぶべきかどうかも、置いといて。
新しさのことごとくが必ずしも良いかどうかも、すっ飛ばして。
ただその理由は、明確です。
彼が映画に帰依していないからなのですな。
笑いに関しては『俺は笑いを作っている』*1と豪語するあたり、笑いの国の住人であるばかりでなく、それを開拓してきたという自負がある。
そんな彼にとっては映画は、笑いのためのたかだかいち手段に過ぎないはず。
いわゆる総合芸術とも呼ばれる映画のなかに、いち要素として笑いがあるのではなく。
笑いという宇宙のなかに、映画がある。
極論すれば、自分を表現する手段のひとつとして映画があるに過ぎない。
しかしながら映画の神は、こういうつくり手には微笑んではくれないもので。
むろん、その善し悪しは別として。
むしろそこに新しさがある、とふんでいるのだろうし。
でもそれが実現した暁には、だれもそれを映画とは呼ばないのだから、とどのつまり映画ではないのです。
イチローがいくら新しく素晴らしいプレイスタイルや記録を打ち立てたとて、所詮は野球でありベースボールという範疇なんです。
いくら芸術的な、と絶賛されようが決してノーベル文学賞には選ばれない。
野球に帰依していてこそなんです。
それはつまり先人への脈々とした敬意の蓄積があってこそ、自分があるというスタンス。
なにも自分を表現するために野球を選んだわけではないはずです。
監督業というと、とかくどS気質の観がありますが、実際は逆でして。
この天の邪鬼で絶対的な映画の神に振り向いてもらうために女優を罵り、スタッフを怒鳴り、極限まで脚本を精査し、研磨し、ときには揉み手で俳優のご機嫌をとり、おだて、スポンサーにごまをすったりハッタリをかましつつ、あるいは逆なでしたり威張ったりしながら、腹の底では平身低頭して神の足まで舐めつくすどMなんです。
神の笑顔見たさに、なんでもしちゃうんですな。
Sにすらなっちゃう。
女優と出来ちゃうことで仮にフェリーニ&マシーナのような黄金コンビができるのなら、やっちゃうんです。
どんな巨匠であれ、
また当人の自覚があるなしに拘わらず、そのはずです。
映画のシモベにしか、映画は匂わせられません。
☾☀闇生☆☽
と書きつつ、久々にフェリーニ観たくなってきた。
*1:ビデオ『寸止め海峡』のエンドロールにて。神が人を作ったと偉ぶるなら、それがどうしたといってやる。としてこの言葉が続く。