いや、違うな。
そういうことを言いたかったんじゃない。
ウケルかスベルか。
この単純化された構図を助長しているのがテレビなのだろうが。
「誰もやったことのない笑いを作る」
というのを己の使命のようにして研鑽してきたのが松本人志という存在であり。
それはとりもなおさず笑いの種類についてであって。
その仕事の多くが、受けるかすべるかの単純な上下の性質に、少しでも横の振れ幅を生もうとする行為だった。
X軸に対してのY軸だ。Z軸だ。
であるにもかかわらず、
彼の企画による『すべらない話』という番組ほど、この単純化した価値基準でみられがちな番組もないと。
だとすれば、こんな皮肉もない。
あるいは、それゆえ彼はテレビを見限って、映画に比重をかけるようになったのか。
笑い=ギャグという世界観だけでは、狭っくるしい。
もったいない。
などとつらつら、演劇に挿入される「笑い」に遭遇するたびに思う。
なんせテレビ的価値観に浸かりきった観客を相手にするのだ。
そういう作りをするのもやむを得ないのだろう。
んが、
あれほど自由な表現手段をもつのに、と重ねがさねにもったいないと思うのだな。
放送コードなるものからもある程度自由だし。
その日その日のタイムリーな話題にも対応できると。
この「自由だああ!」
という開放感もまたテレビの敷くコードが存在するがゆえのものだったりするわけで。
はからずも『緊張と緩和』の力学が作用して、
あらためてテレビの束縛の根強さを再確認させられるばかり。
そういや思い出した。
昔、映画『バトルロイヤル』のレンタル開始日。
映画はR指定なので、中学生は観られなかったと記憶する。
けれどその制約がかえって思春期のボーズたちを「はあはあ」させてしまう事態となり。
おそらくはそういう営業戦略でもあったのだろうが。
チューボーたちは親の名義の会員証を使ってそれを借りようとしたり、はては店員に拝みこんだりして、かけがえのない若き日の時間を費やしたのだった。
あたしゃそのころレンタル店の店長やってたので、よっく覚えてます。
こうして考えると、
制約の反動を利用しての表現と言うのがまた、単純化に拍車をかけるのだなと。
笑いをギャグ化させるのだなと。
いや、
多くの演劇人はそんな二極化からの脱出を実践しているのだろうけれど、お目にかかる機会が少ないということなのだろう。
それすなわちマイナーか前衛になってしまうということなのだろう。
とまあ、
そういうわけで、今日もまたわかりやすさを求めて多くがテレビに頼るのです。
☾☀闇生☆☽
追記。
上記とはまるで脈略も無い話だが、
ここ数日の日中韓問題のせいなのか、
唐突にあたまのなかで『オジャパメン』が鳴りだしている。
しかもエンドレスで。
のっ! むっ! くっ! がっ!
この、ものの見事な時代遅れ感。
それを説明もツッコミもなしに笑いにしてしまう松本らのセンスが、あの頃たまらなかった。
最初の放映のときは殴られたような笑撃で、茫然とするほどだった。
いつの時代のアイドルだよって。
腹抱えて笑ったなあ。
これぞ最強のK-POP。
そう思ってしまうのはきっとこの暑さのせいでしょう。