おそらくは十年ぶりくらいだろう。
松本人志のコントライヴのビデオを観るのは。
当時お笑いとして破格の料金一万円で敢行した伝説のライヴ『寸止め海峡(仮題)』のVHSである。
例の松本のメイ言「神が人を作ったと偉ぶるなら、それがどうしたと言ってやる。俺は」云々の元となったビデオなのだが。
この発言。今となってはある意味、才人松本の若気の至りとしていじられる逸話となってしまった。
んが、当時の松本はこれをのたまうに相応しい勢いも実力も兼ね備えていたし、それを持て余してもいたのだ。
勢いのあまり、ここでの観客の反応はコントそのものに対してではない場面が珍しくなく。
なにやっても笑っちゃう。
つられて笑っちゃう。
出てきただけで笑っちゃう。
今となってはそんな観客の軽薄が目に余るし、またそれを松本が煩わしいと感じていたからこそある種の『なんちゃってファン切り捨て』として、料金を一万円に設定したのに違いない。
面白いものを本気で欲しがる奴らだけを相手にしたい、と。
今見ても、
いや今だからこそ根底にある彼のそんな苛立ちが、ギラついて見えた。
ともかく、これ、いまだDVD化されていないのだという。
ビジュアルバム・シリーズをまとめた『完成』のBlu-ray版に、このライヴの中から辛うじて3本が特典として収録されているだけだ。
中でもVHS版のラストを飾る『赤い車の男』というコントが、いわゆるすっきり笑えるコントではなく、きわめて演劇的な後味を残す作品であっただけに、特典からの落選を惜しむファンは少なくないはず。
当選組の三本はどれも分かりやすい、もしくは笑いやすいものなので、そのあたりが選択基準に作用して、ひょっとすると松本の遠慮があったのかもしれない。
有体に言えばそこにファンへの『見限り』がある。
けれど、この落選した方こそが、松本の根っこなのだとあたしゃ確信するのだ。
コント(もしくは『笑い』)、というものに対する観客の固定概念をやぶることこそが、松本の模索する『新しい笑い』もしくは『今までにない笑い』なのであって。
ならばこれら『赤い車の男』などの実験作を「笑えない」とするのもまた、その意味においては正解なのである。
ただし声を出して笑えないから面白くない、とは言い切れないモヤモヤを、誰しもが感じとるはずだ。
そう。『コント』という個々人のなかで勝手に決めてきたであろう固定概念が、そこに介入するのである。
本来、「笑える、笑えない」という肉体的現象と「面白い、面白くない」という感受性は完全には同一ではないはずだ。
リンクしないことは、日常でも間々ある。
ましてや松本の作る笑いの核には、幼年期の物悲しさが厳然としてあるわけで。
ミラクルマンにしろ、おかんとマー君にしろ、とかげのおっさんと出会った公園にしろ。
そう踏まえれば、この『赤い車の男』こそ、幼年期の少年視点で見た大人の不可思議さ、恐さ、巨大な物悲しさで成立していることを感じ取れるのではないのか。
演劇的だと思う。
あるいはダウンタウン出現以降の演劇界が、コント的になっているのか。
幕切れの印象的なオルゴール。
どうだろう。今の松本なら、照れてやらないかもしれない。
このオルゴールで終わって、やりきった感あふれる打ち上げの挨拶。そしてエンドクレジットで例のメイ言である。
それでワンセットだ。
VHS版の構成での再発を、求む。
☾☀闇生☆☽