ショーン・ペンが主演した『I am Sam』という映画。
そのデキはといえば、
実のところあたくし的には赤点なわけで。
その評価は今もって変らぬのだが。
うん。
白状しておこうか。
そう断言しつつもあたしゃあの映画で泣いているのだな。
それも大泣きしている。
知的障害者であるサムが、
ホームレスの女とのあいだに女児をもうけてしまうことから物語は始まる。
産んだホームレスは病院から逃げてしまい、
途方にくれつつもサムはひとりで赤ちゃんを育てることに。
彼はたしか知能が9歳という設定だったか。
いずれはその父親の知能を娘が超えてしまう日が来るわけで。
けれども娘は健気にもそんな父親をかばい、
援け、
いちずに慕いつづけるのだ。
ところが、
やがてこの無理な生活に行政がちょっかいをだしはじめる。
むろんそれは善意からのことであり、
はたしてサムに養育能力があるのか、と審査にかけるわけ。
父娘という関係は私的なつながりであるばかりでなく、同時に公的な性格をあわせもつわけであるからして、それは必然だろう。
して、
これにより、父娘の蜜月の日々は危機をむかえると。
そんな流れであった。
ファストフード店のアルバイトというサムの経済力からいえば、この設定自体がある種のファンタジーであり、
それをきわめて現実的な視点で救おうとする行政側を、ことさら悪に見たてて話を作っているところが、なにより映画をうすっぺらくしているわけで。
とどのつまり赤点と。
ただし見どころが無いわけではなく。
大きくいえばふたつある。
まずは何をおいても娘役を好演したダコタ・ファニングちゃん。
あたしゃロリっ気は鼻毛の先ほどもないつもりだが、
この愛らしさにはころり、おっさんはやられちまった。
てか、
有体に言えば、
映画はこの子でもっているようなものなのだ。
作り手はそれを十分に理解しているから、
てかそれありきの企画だろうから、
それはもう作為的に、ずるっこいカットを繰り出すのね。
ある意味、彼女のイメージビデオであるといっていい。
もうひとつはビートルズ。
サムは文字に暗く、本も読めない。
よって学習能力もとぼしい。
となれば道徳やら愛やら哲学やらの抽象概念が理解しにくいはずなのだが、どっこい、それでも社会を生きている。
ざまみろと。
ともすればいわゆる健常者といわれるひとたちよりも、楽しんでいる。
では何をして人生の指針やモットーといった、いわば心の支柱を保っているのかというと。
それがそう、
彼がこよなく聴きつづけるビートルズなのだ。
さまざまな逸話やメンバーの発言を覚えていて、
それをなにかにつけては思い出し、励みにしているというわけ。
そこね。
大切なのは。
音楽がとりもった、ひとつの価値。
音楽だからこそ、だろう。
なかでも、
重要な場面で紹介されるジョージ・ハリソンの逸話が、
もおね、泣けて泣けて。
あそこがジョンやポールの話だったら、ああまで感動はしなかった。
人呼んで、静かなるビートル。
ジョンはいまや反戦平和運動の神格にされ、
その名が一人歩きしてるし、
ポールは健在だがサーの称号を受けてしまって、なんだかなあと。
リンゴはほぼ隠居状態でドラム叩かんし。
気づけばあたしのなかのビートルズが、
ビートルズの方から、去っていた。
思春期なんてものはそういうものだ。
けど、
このジョージという静かな男が、
当時のあの喧騒のまっただなかで何を考え、
何を見ていたのかばかりは、いまも気になるところであり。
などとお思いの方も少なくないのではないか。
そうと知ってか知らずかスコセッシがやってくれたのだ。
『Living In The Material World』
↓公式サイト
いまそのドキュメントが、
晴れてお披露目とあいなりますぞと。
あのね、
バンドというものは、プチ社会でね。
縮図でね。
その意味においてジョンとポールという、
大天才と大秀才に挟まれた彼の位置というものへの興味が、
どうしてもあるのだよ。
むしろそこに興味をもってこその世界だろうに、
とまで思ふ。
劇場いくどー!
☾☀闇生☆☽おー!!