壁の言の葉

unlucky hero your key

言の葉の繁み。

『読者罵倒』収録


 筒井康隆著『原始人』収録「読者罵倒」。
 これ、タイトルどおりに出だしから罵倒の洪水だ。
 で、その調子でなんと文庫本十二ページにわたって、軽薄なる読者を罵りぬくのだ。
 圧巻である。
 はじめは誰しも他人事のように文章から距離を置くが、筆者は執拗に、これはお前のことだと繰り返す。


 よって、否応もなく引きずり込まれる。
 たとえこの挑発にのってアツくなったとしても、その語彙の圧倒的な豊かさに悶絶し、縦横無尽のバリエーションに脱力し、とどのつまりが笑うしかなくなってしまうのだ。負けたよ。負けたっつの、と。
 白旗ぱたぱただ。
 単行本が昭和六十二年とある。
 そのころから読者(われわれ)は、自我を絶対化し、未熟なる自分を中心に据えて世界を見ていたのだなということも、わかる。
 頑張らない『私』を肯定してくれる本。
 そんな映画。
 恋人。
 職業。
 有体に言ってしまえば例の『自分探し』の時代だ。自分の尻尾を追い続ける、かわいそうな犬だ。それが長引いている。
 にしても、思うのだ
 たとえ罵倒でも、ここまで徹底すると、その果てに妙なぬくもりを感じることができるのだなと。
 ベタをかませば、それは『愛』かと。

 
 実はこの小説を思い出したのは、昨今取り沙汰される学校の『裏サイト』。それに関するニュースを見ていてのことなのだ。
 あたしゃ実際にそれにお目にかかったことはない。
 その手のニュースでサンプルとして取り上げられている個所くらいしか知らない。
 けれど、それで十分に想像ができる。
 なにがって、その語彙の乏しさが、である。
 お寒い。
 あたしだってこの通り、決して豊かな方ではない。
 けれど、あれは相当に貧しいぞ。
 その言葉の貧しさが、そのまま書き込み人の脳みそ事情を晒していて、なんとも哀しいありさまなのである。
 脳が、スケルトン。
 でもって殺風景。
 考える力の根本は、言葉だろう。それがああも欠乏しているとは。
 広大なパレットの上にわずかふたつばかりの絵の具を出して、延々と同じ配色で絵を描いているような。
 それでもデッサンやら、構図やらがしっかりしていれば、水墨画のごとき千変万化の表現もあるのだろうが。
 なんせ、乏しいんだ。
 中傷したいなら、一人前に中傷できるだけの語彙を、まず蓄えるべきではないのか。
 でないと、書いたそばから、バカの中身を出してしまう。


「バカと言った奴がバカだ」
 (映画『フォレスト・ガンプ』より)


 たとえば良識のある米国人ならば、現在のブッシュ政権を批判する。
 そのブッシュ本人を罵る言葉はいくらでもあるだろうが、なかでも決定的なのがこれだ。


 彼は、歴代大統領のなかで最も語彙が少ない。


 なんせ本は読まない、と豪語する男である。
 政治はまず言葉を駆使することから始まるものなのに、その言葉が足りないのだ。
 ようするに考えが薄っぺら。
 そんな奴を大統領にしてしまったからこんな国になってしまったと。


「悪口もあそこまで徹底すると、悪口でなくなる」


 そう述べたのは、宮崎駿
 乃木希典大将を描いた司馬遼太郎の『殉死』を指しての言葉だった。
 確かに、あたしゃあれを単なる「悪口」とは思わなかった。
 一面的な批判とも感じなかった。
 乃木の魅力についても感じ取ることができたし、司馬自身がそれをどうにかして感じ取ろうとしているのがわかった。
 だから宮崎がそう述べたのを知って驚いた覚えがある。
 「悪口でなくなる」のは、批判のマナーとして、司馬が取材を徹底しているせいだろう。
 真摯。
 うん。


 まあ、彼らを『裏サイト』なんぞと比べるあたしのセンス、おぞましくもある。
 筒井も司馬も顔を晒したプロの作家なのだし。
 けれど、そんな言葉の達人にふれて、まず人を批判する能力を磨くべきではないのか。
 なんでもかんでも「チョー○○」でくくったりしていると、それは決して磨かれないって。
 あたしゃよくそういう人を「アイドルのグルメ旅」と表現するのだが、ああした番組でつむぎだされる言葉って、極端に少ないでしょ。
 何を食っても、
 何を見ても言葉が乏しいでしょ。
 ひもじいでしょ。
 中華食っても、ワインいただいても、同じこと言ってんだ。
 そこにあるのは『感想』にもなれない、単に『反応』に過ぎないリアクション。
 叩かれて「痛い」って言っているのと同じ。
 ああいう人たちと映画を見ようが、遊びに行こうが、広がりがないのであーる。
 ようするに、つまんない。


「映画は、語られてはじめて『映画』になる」


 映画監督の押井守(『甲殻機動隊』『イノセンス』など)はそう言った。
 まったくの同感だ。
 観ただけでは、何にもならない。
 食ったら、出す。
 言葉としてつむぎ出されてやっと、身になる。
 それには語りあえる相手が要るし、正確に語れる言葉が。絵の具の種類が、配合のバリエーションが、必要だ。
 少なくともだ、
 「死ね」の連呼というお粗末な脳では、映画はおろか、世界のおもしろさを感受することは、到底できっこない。
 彼らが蔑視する○ボタンの連打だけでクリアできてしまうゲームを、なんだか思わせはしないだろうか。


 昔、大人は耳にタコができるくらいにこう言った。
「本を読め」
 けれど、その大人にとっての大人は、こう言った。
「本ばかり読んでいると、馬鹿になるぞ」
 いまにして思えば、本を読んだからといって、決して利口にはならない。
 また、利口になったつもりになってもいけない。
 評論家の渡部昇一は「ネットはサプリ。読書は食事」と。
 サプリでは、いただきますを介した森羅万象への感謝には直結しない。
 なんであれ、言葉を身に着け、世界を知れば、裏サイトとやらに依存する己の矮小さだけは、わかるようになると思う。


 大人の大人が言った「馬鹿になるぞ」は己の馬鹿さ加減を知るぞということ、だと解釈する。
 『無知の知
 それこそが知性だ。



 ☾☀闇生☆☽