映画は語られてはじめて映画になる。
そうのたまったのは押井守だ。
むろん、作り手がわの言葉としての意味合いが強い。
んが、
観賞するがわにも言えることだと思う。
ただ観るだけでおしまいにしていたのでは、食うだけ食って消化も吸収もしないのと同じ。
うんこすらしないようなもの。
それはたかだか映画を『知った』というだけである。
食ったら、出すべし。
言わずもがな、
出すために食うようでは、本末転倒かもしれないが。
それが自然というものではないか。
それを誰かに語ったり、
あるいは日記に書きとめたりするその瞬間、その現場で、情報は映画になるのだ。
いや、
映画だけではなく。
本にしろ、
漫画にしろ、
自身の体験のトホホにしろ、
ラッキー♪にしろ、
語ることで、脳みそが整理整頓されていくわけで。
つまりは形になる、と。
する、と。
んで、
それは時に生理的な興奮をともなうものであり。
あえて整理的と言い換えちまおうか。
その筆の勢いでぷよぷよ的と言ったら、飛躍させ過ぎか。
ともかくもこの運動に共感、共鳴という連鎖が得られるならば、気持ちがいいことこの上ない。
たとえ反論に出くわしても、
それ自体がたたき台となるわけだから、なんであれ整理的な刺激には違いないのであーる。
たとえば、
それが女たちの、あのとめどもないおしゃべりの背骨になっていたりもするようで。
問題はこの整理を無自覚にやらかす場合である。
観た映画を、
さながら日記の上で追想するがごとくに話す同僚がいる。
繰り返しておく、
追想である。
感想ではない。
オープニングからエンディングまで、
だらだらとストーリーをなぞるだけ。
演技力も、
豊かな語彙もなく、
あたしが観たことのない二時間の映画を、二時間かけて話すのだ。
正直、閉口するのだな。
こちらのリアクションのヒキダシも尽きて、やがては疲れ果てる。
顔が、死ぬ。
それでもかまわず淡々と物語の筋をなぞり続けるのだから、なんのことはない。伝えたいのではなく、確認したいだけなのである。
ひとりごと。
ついったあとか、ブログでやったら。
いっそそう言いたいくらいなのだが、それでもかまわずヤツはしゃべるし。
突き進むし。
整理する。
あそうか。
あたしゃただの壁、なのだな。
あるときそう気付いた。
こちらの疑問や質問や、
ツッコミや、
もしそれが俺だったら。
あるいはそこで主人公が死ななければ。
そんな、たら、れば的な展開の自由も許されず。
あるいはこちらの観た映画やなんやは、どうでもいいのであーる。
せめてさ、
語り手ビート武に対する受け手高田文夫、という関係性を目指そうじゃないの。
一方的に語る以上はさ。
あのね、
この調子でね、
アメリカのテレビドラマなんかをやられると、心底しんどいから。
あっちのドラマってシーズン8、とかざらにあるでしょ。
こっちゃへろへろですよ。
でね、
その人とは別に、
その週観たバラエティー番組を、全部語る人が、居て。
これもキツイ。
今週は『人志松本の○○な話』のスペシャルがあったから、まず間違いなく、それを語られるわけで。
てか、
あたしも観てますから、それ。
そうと知ってなぜ、再現するか。
出演者をもっとしぼって、VTRはやめて、トークだけにしたほうが…。
俺の場合、こんなことがあった…。
なんて感想やら発展やら代案はないのね。
ひたすら、テレビで観たトークを、素人しゃべりで再現すんのね。
あれも無自覚な確認なのだろうなあ。
自分のなかでの。
同じ筋をしゃべっても、プロとアマではこうも違うかという確認はできる。
思い知る。
けど、
やっぱ、つらい。
で、
そんなつらさついでに、同じことを他人に対してしないようにと、気を引き締める。
入れるときはむろんのこと、
出すときこそ、エチケットを。
☾☀闇生☆☽