壁の言の葉

unlucky hero your key

Home sweet home.

KeithJarrett/TheMelodyAt…




 NODA・MAPの番外公演で、野田秀樹がひとり芝居をやってから、もう何年経つのだろう。
 『2001人芝居』。
 これで、にせんひとりしばい、と読む。
 ということは、今世紀の頭か。
 あるいは、前世紀の尻尾か。
 以下は、そのネタバレも含みつつ書く。
 放送されたことがないので、ネタバレしようもないが。
 まあ、戯曲も出ていることだし。


 ケータイ、パソコン、テレビといったモニター文化に毒されて、自分の言葉を失ってしまったひとりの男の悲哀を描いていた。
 関取のインタビューを見ているうちに、自分がその関取になったようにふるまい。
 科学者の言説を追ううちに、自分がその当人になってしまったかのように錯覚する。
 ガングロのコギャルにもなれば、
 攘夷を叫ぶ幕末の志士にもなる。
 はたまた終末論を唱えるカルト教団の教祖にも。
 面白いのは、まさにそこだ。


 て、どこだ?


 ひとり芝居の醍醐味とは、ひとりで複数を演じ分けるところにあるのに、この芝居はそれをちょうど逆手にとっているという、とこ。
 観客はむろん野田が複数の人物を演じ分けていると、そう信じて観ている。
 が、実際は違う。
 複数になりきっているたったひとりを、演じているのである。


 印象的なくだりがある。
 中世のヨーロッパでは、大人たちは手に余った子供を森に置き去りにした。
 口べらし。
 が、決して捨てたのではない。
 狼にあずけたのだ、という方便で彼らは良心の呵責をまぎらわせたという。
 そこへいくってえと、現代。
 母親たちは子供をテレビの前に置き去りにする。
 捨てたのではない。
 テレビに子を託したのだ、と。
 となれば、子にとってはテレビモニターこそが世界を教えてくれる親であり。
 教師であり。
 故郷でもある。


 人類の宇宙への進出がおもうように運ばない原因は、復路に要する時間にある。
 故郷に帰りたい、という逃れようのない欲求。
 生まれたところへ。
 あるいは、居た場所に戻らずにはおれないその習性。
 それさえ断ち切ればこれまでの倍、人類は遠くへ行けるはずで。
 ならば、
 生まれたての赤ん坊を宇宙船に乗せ、テレビに子守りをさせながら旅立たせたらどうか。
 捨てたのではない。
 託したのだ、と。
 そうすれば宇宙船という揺りかごと、テレビという母親が、赤ん坊の原風景となるはずで。
 ならば、そのまま育って成人になったとしても、地球へ帰りたいという欲求もきっとおこるはずもなく。
 たかだかカラスが鳴いたってだけで、帰りたくなる衝動もない。
 などと述べ立てている科学者、
 ――になりきっている彼だったが。
 その弁舌のさなかに突如、彼が見ていたモニターが、


 だんっ、


 落ちてしまう。
 一面の砂嵐。
 それでようやく我にかえった彼は、意を決してモニターを取り払う。
 すると、そこに広がっていたのは底なしの『無』。見渡す限りだ。
 同時に、彼は何かを話そうとするが、どうしたことか言葉が出てこない。
 言葉の出ない自分に、彼は驚嘆する。
 モニター無しには、自分の言葉を発せないとは。
 それは、
 決して戻ることのできない、片道切符の宇宙船のような孤独。
 自分がとなえたあの赤ちゃん宇宙飛行士のような。
 わかったところで、モニターに囲まれて生きていくほかなく…。
 途方に暮れた彼は膝をかかえ、
 エッシャーの階段をゆくがごとく、くるくると終わりのない言葉遊びを呟くのだった。
 いつまでも。
 闇の中で。


 終演後、カーテンコールの場内に流れたピアノ・ソロ『I Loves You ,Porgy』が、実に印象的で。
 あれはたぶん、キース・ジャレットのだ。
 アルバム『The Melody At Night,With You』からの演奏で、思うに名演。
 こうしてあたしが書いてしまうと、野田による単なる現代批判のように解釈されそうだが。
 実際は、主人公の孤独に寄り添うキースの演奏に、どうしようもなく救われるのである。
 絶望だけが産み落とす、かすかな希望を信じようと。
 孤独を憐れむ、野田のまなざしに。


 ちょうどこの芝居を観たころ、あたしゃレンタル・ビデオ屋に勤めていた。
 昼ごろになると、店内は幼稚園帰りの親子づれで賑わったもので。
「はやく決めなさいよっ」
 母親に急かされながらビデオを選ぶ子供たちの姿は、見慣れた光景であった。
 決まって手にはマックの紙袋。
 ちょうど100円マックが定着し始めていて、
「だって、作るより安いんだもん」
 と、子供の昼食の定番になっていたようだ。
 現に会員のママさんたちは、口々にそう言っておられたし。
 ようやく決まって、子が母にそのパッケージを差し出すと、
「こないだも観たでしょ、これ。違うのにしなさい」
 あれ、なんでなんでしょ。
 繰り返し観聴きすることが、子供の感受性にとってどれだけ大切なことなのか。
 わかってはいるのでしょうけれど、おカネを払う立場からすると、無駄に思えてしまうのでしょう。きっと。
 一緒に観るわけでもないくせに。
 マックを与えて、
 テレビの前に捨て、
 もとい、託しておくだけなのに。
 むろん、母親も忙しいのでしょう。なんやかやと。
 けれど、そんなことを考えていた矢先の上演だっただけに、この芝居の印象たるや、強烈だったのである。
 マックやコンビニ、
 あるいは冷凍食品で育った子供たちの舌には、もはや『母の味』なるものは、根付かない。
 加えてテレビやらビデオやらのモニターが、対話の相手だったわけで。
 ということは、野田が描いた赤ちゃん宇宙飛行士と、現代人は同じではないかと。
 そんなふうに育った子が将来、故郷を、そして親を顧みるだろうかと。
 なんせ懐かしい味は全国津々浦々のファーストフード店やコンビニにあるのだし。
 心をゆるせる相手は、モニターの中にいるのだし。
 そりゃあもう、自分好みの情報と相手だけを選んでいればいいわけで。
 とまあ、それをこのブログという『モニター』あってのものでのたまうのもどうかと。
 我ながら思うのだが。


 実は、あの芝居が放映されない理由のひとつが、それではないかとも思っているのです。はい。
 モニター越しにモニター文化批判をする、という矛盾。
 いや、それもそれとして面白いとは思うのですがね。あたしゃ。
 しかし、それでは視聴者的には、毒が強すぎてしまうのかな。
 生で観てこその、芝居でしょう。やっぱ。


 にしても、今や働く自由、でもないですね。
 嫌でも母が外へ出んことにゃ、一家のやりくりがねぇ。
 と、この元鍵っ子は思うのであった。
 とさ。



 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 この芝居を見た時の、思い出をもうひとつ。
 『だんっ』
 で、モニターに見立てていたスクリーンが砂嵐を映したあと。
 野田にスクリーンが引っぱがされると同時に、その爆音もかき消える。
 静寂。
 絶句。
 ただその無音が不気味で、悲しくて。
 …という具合に、そこは無音が雄弁に語りだすシーンだった。
 無音であるということ自体に意味がある、そんなクライマックスだった。
 がそこへ、


 ピロロロローン♪

 
 ケータイの着信音だ。
 あまりにジャストで、
 なおかつモニター文化批判という題材であるだけに、これは仕込みではないかと。
 いや、どうか仕込みであってくれと、願った。
 祈った。
 野田が客席におりてきて、そのケータイを使って芝居が続くのだろうと。
 が、
 まことに残念なことに、残念は残念のまま残念として残念な記憶となってしまったのだ。
 なにしろあの静寂だ。
 きっと演技中の野田の耳にも届いたに違いなく。
 苦々しく思ったか、
 はたまた、しめしめ、そらみたことかと思ったか。
 まあ、そらみたことか、なんて思いは、常にビター味なものなんですけれど。