壁の言の葉

unlucky hero your key

 『パイパー』感想、追記。
 開演前、場内には古いジャズが流れていた。
 ジプシー・ジャズの開祖ジャンゴ・ラインハルトか、
 その盟友ステファン・グラッペリかという。
 ともかく戦前の音源であることは確かである。
「それがどーした」
 と言われそうでもある。
 だが、野田の芝居では開演前のBGMが重要な前菜になっていたりするのだから、あなどれない。
 いや、この際、それを前戯と言っちゃお。
 当然のことながら、それもふくめて、すでに演出された空間に観客はいるのであり。


 ね。


 例えば、『ロープ』。
 開演前はギルバート・オサリバンのヒット曲が静かに流れていた。
 やがてその代表曲とも言える『Alone Again』になり、
 少しずつヴォリュームがあがって、
 それはうるさいまでにまで高まって、突然ふっと切れて芝居が始まった。
 物語はベトナム戦争とプロレスを、暴力というキーワードで結んだもの。
 物語のはじめでリングの下に引きこもっていた女が、ふたたびリングの下に戻っていくという結末。
 そこで再び流れるのが『Alone Again』。
 ベトナム戦争当時のヒット曲であり、
 またひとりぼっちになってしまった女をうたってもいて、印象深い。


 『走れメルス
 開演前のBGMは歌謡曲
 それも七十年代から八十年代初頭のがつぎつぎと。
 イルカに乗った少年とか。
 たのきん系とか。
 キャンディーズも流れたかな。
 これはこの作品の初演の時代背景なのだろうか。
 ともかくアイドルがまだ、しょんべんやうんこやシモネタとは無縁だった時代。そんなアイドルたちの無垢で能天気な歌ばかりが、これでもかと流れるのだ。
 平成の世でこれを高らかに流されると懐かしさよりは、失笑というか『隔世の感』のサンプルをまざまざと見せ付けられているようで。
 それが強烈に恥ずかしかった。
 本当に同じ国の、わずか三十年ばかり前の文化なのかと。
 俺の国の歌なのかと。
 そんな矛盾する異国情緒が、面白く。
 ましてや相手は野田だし。
 そこにどんな黒い皮肉がこめられているのかと、開演までずいぶんと勘繰ったものである。
 そしてこの物語に登場するスターが、そんな王子様のようなアイドルで…。


 『The Bee』
 BGMは伊集院光が編纂したアルバム『おバ歌謡』から。
 海外の有名ヒット曲を、なにが彼らにそうさせたのか、あるいはただの出来心だったのか、あろうことかあるまいことかほぼ直訳で歌ってしまったのとか。
 残酷すぎるアニメの挿入歌とか。
 読んで字の如しの、おバカな歌謡曲集である。
 イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』あり。
 はたまた先にも触れた『Alone Again』を『また一人』にしたりと。
 開演前から聴かされて、おもわず顔がにやけてしまった。
 で劇中で使われるのもこのアルバムからで、運動会の徒競走でお馴染みの『剣の舞』だ。
 これに詩をつけて尾藤イサオが熱唱しているのだな。


 うそかまことか、まことかうそか〜♪


 それはもう、突き抜けたおバカ。
 ほとばしる陽気。
 でまた歌が異様にうまいんだ。
 まいっちゃうんだ。
 そんなのを、殺伐とした狂気の場面に流して引き立てようというのが、芝居の狙いであった。


 それでだ、
 この度の『パイパー』を思い出しますとね。
 冒頭にも書いたとおり、古いジャズ。
 あたしのポンコツ耳が確かなら音源はジャンゴ・ラインハルトのもので。
 その活躍は1930〜40年代あたりか。
 となるとオーソン・ウェルズのラジオドラマ『火星人襲来』。
 これを本気にした視聴者がパニックとなったのが38年だから、やはりそのあたりの匂いを狙ったのだろうか。
 火星だとか、宇宙人だとかを意識し始めた時代であると。
 にしてもね、
 しっくりいかないのよ。
 単にリラクゼーションとしてBGMを選曲するはずはないから、ちょっとひっかかっています。


 ついでに書いておこう。
 あたしが観た回。
 この芝居はトータル二時間あまりなのだが、開演一時間経ってから席に着いた人がいた。
 それも目の前の席。
 もはや物語の理解はできないだろうに。
 ばかりか周囲の客にとっては、気が散るわけで。
 それでも、来るのだな。そこは。
 でね、
 こういう極端な例は別にして、開演ギリギリに入場する人たちって少なくないでしょ。
 無理もないのだ。
 日本の場合、消防法の関係で、夜遅くまでああいった施設を使うことができない。
 よってコンサートでも芝居でも、開演が夕刻だ。
 働いている人たちには、ちょっちキツイっての。
 米国なら、まだ前座の時間帯よ。
 メインアクトは九時過ぎからだ。
 だから、帰宅して着替えて、で飯食ってから会場に駆けつけたりができるわけ。
 まあ、車社会だから、終電の問題がないのだろうけれど。

 
 んなことボヤいても仕方ないが。


 せっかく作り手は、開演前の演出まで工夫しているというのに、そんなこんなでパーなのである。
 もったいないってば。
 たとえばコクーン歌舞伎で、当時まだ勘九郎だった現・勘三郎が『夏祭浪花鑑』をかけたとき。
 江戸の街中にたった芝居小屋、というコンセプトなのだろう。
 そんな雰囲気を出そうと、開演前からメイクを終えた役者たちが、客席のあいだを歩いてるのね。
 飛脚が走り抜けたり。
 威勢のいい瓦版屋がとれたてのニュースを叫んでいたり。
 女形が、団扇を使って涼みながら、妖しい視線を投げていたり。
 勘九郎も通りすがりに、町人と会話をして去って行ったりと。


 すでに始まってんだ。前戯が。


 相撲もそうだけれど、場もふくめて演出されてますでしょ。
 良質な催しってものは。
 芝居てのは、なにもステージ上の事件だけの産物ではないはず。
 パンフレット売りのおねーさんの声のテンションだって、なんらかの形で作用しているわけ。
 そういうのを劇団の新人が受け持っているのならば、なおさらだ。
 だからね、
 ちょっち早めに出かけて、味わってみましょうよ。






 前戯すっとばしで、本番だけいただこうってのは、おとな気ないんだぞっ。


 ☾☀闇生☆☽


 めっ。