野田秀樹の芝居に『赤鬼』というのがある。


 とある島国のちっぽけな港町。
 そこに、嵐によって遭難したのだろう、
 異国からひとりの男が漂着する。
 町の人々は海の向こうを知らず、
 そこに世界があることすら知らない。
 よって自分たち以外の人種の存在も、異文化も、外国語も知らないでいる。
 おそらくはそんな概念すらないはずで。
 男は町はずれの洞窟に住みつき、
 ときに食べ物を求めて神出鬼没するのだが、
 はじめて見聞きする彼の容姿や言動に人々は恐怖するのだった。
 恐怖は口から口へと伝播して、
 誇張され、
 妄想や偏見をはらんで、男を人にあらずと。
 ソレを「赤鬼」と見なしたのだった。
 して鬼とはなんぞやと。
 自分たちとはまるで違うもののはずだと。
 ならば人を食うにちがいないと結論づける。
 そんな彼に心を開くのは、
 人々に「あの女」と蔑まされる女と、
 その兄で知恵おくれの「トンビ」。ともに町のはずれに住む被差別者たちである。
 やがて、赤鬼と通じた罪で投獄される彼女。
 町一番のうそつき「ミズカネ」の手引きによって牢を抜け出し、
 赤鬼とトンビをふくめた四人で海の向こうを目指すのだが……。


 ここでは、
 芝居の感想や解説が書きたいのではない。


 この芝居、
 闇生はイギリス人俳優で固めたロンドン・バージョンの、それも放映で感動したのが最初である。
 ナマでの観劇は、再演された日本版。
 小西真奈美たちとやった四人芝居のやつ。
 でだ、
 いうまでもなく芝居というのは生で見なけりゃ意味がない。
 んなこたわかっているのだが、
 初めて合って恋におちたのがこの放映版なのだから、しょうがない。


 ちょっち語らせて。


 今回触れたいのは、その衣装についてで。
 「赤鬼」(ロンドン・バージョンではRED DAMON)というタイトルに反して、赤鬼役の野田秀樹は上も下も黒のジャージなのだった。
 ウインドブレーカーというあれね。
 真冬にフードをかぶってジョギングしているフツーの日本人のおっさんといった出で立ちである。
 それが、
 偏見や先入観によって文字通り「赤鬼」と見なされていくところに、この芝居の鮮烈さがあるわけ。
 大衆の負の側面と言おうか。
 観ているあたしたちも、
 ひょんなことでまったく異なる文化圏に放り込まれれば、赤鬼なのではないのかと。
 して、
 そんな彼をとりまく町の人々(黒人、白人をふくめた英国人俳優たち)の衣装のほうがなんと、赤なの。
 つまりモンスターは、
 自分たちと異なることに恐怖し、よってたかって差別する大衆の側ではないかという。
 それが映像的にも迫ってくるという仕掛けであって。
 クライマックスでは、
 この地味なウインドブレーカーと人びとの赤との対比が、痛いほど沁みてきたものであーる。


 んで、
 当時えらく感動したので、
 ただちに誰かとそれを共有せんとして、
 職場のバイト君にすすめた。
 彼は絵を描いたりする、いわゆる創作系のオタクで。
 世の映像表現には一言ありとばかりに、彼なりのこだわりをもっている。
 けど、
 この赤鬼の感想はといえば、開口一番。


「まず衣装がダメ」


 その辺で売ってるただのジャージじゃんと。
 手抜きだと。
 まるでキャラが立ってないと。
 してそのストーリーやテーマについては、
 批判はおろか、
 ついに触れもしなかったのだ。
 ショックだった。
 確かに芝居は生で、とはいうものの、それはあんまりだと。
 作り手が衣装で表現しようとしたねらいを了解した上での批判ですらない。
 つまり、
 観客の脳裏に、
 ともすれば自分も赤鬼にされる可能性が、
 もしくは誰かを赤鬼にするかも、という不安を植え付けるのが、この芝居のねらいのひとつであって。
 赤鬼役がその辺で売っているただのジャージを着ていること、それこそが重要なのね。
 観客の日常と、ステージ上の寓話との接点だ。
 (この上演はロンドンでのことだったので、観客の多くが英国人。つまり赤鬼を差別し糾弾する町の人々側の視点で観ているはず。いっぽう、のちにこれは日本でも上演されたので、その時の観客は、野田が演じた赤鬼に感情を傾けているはず。)
 

「線が」

 
 とか言ふ。
 漫画を評するときになにかと使う言葉で、
 ネット上でもよく目にする。
 アニメなら、
「動いている」
 とか、動いてないとか。
 動画枚数がどうしたこうした。
 有名な作画マンがどうのこうの。
 それはそれで大切な視点ではある。
 どうせなら録音や音楽、カメラ、編集にまで言及してみいと思うと同時に、それだけでは作品の本質に触れられないとも思うのだな。
 断わっておくが、身近な個人への攻撃がしたいのではない。
 日々そういう視点に終始する声が増えているなあと、
 例としてあげたまでで。
 というのも今日はつくづく思ったのね。


 なんせ9ページだもの。


 ベタ塗りの真っ黒いページに、
 吹き出しがぽつり、ぽつりと。
 それが9ページも続くのだ。
 ト書きすらなく、セリフだけ。今週のHUNTER×HUNTERのハナシだけどね。
 野暮をかましたくないから内容には触れないが、
 これへの批判が、つらかった。
 9ページぶん絵がない点について言っているのが多いのなんのって。
 労力とおもしろさは比例するという考えなのかもしれないが、
 そうだろうか。
 顔面にのっけた化粧品の数と美しさは、比例するのでしょうか。
 あたしはいったい何を言ってるのでしょーか。
 と疑問をもつと同時に、
 あえてそれにのってやるとするならば、
 これ、簡単に書けるわきゃないよねと。
 モノ作っているひとなら、わかるでしょ。
 おそらくは何度も何度も、
 改行や吹き出しの位置、
 言葉尻、
 文字のサイズの変化、
 三転リーダの取捨選択、
 縦のぶち抜き3コマ割りにすることの判断、
 むろん、それで9ページを貫く決意。
 逡巡。
 焦燥。
 つまりこのくだりをもっとも雄弁に表現する正解をもとめて、
 執拗に模索しているはずなのだ。
 わかるでしょ?
 シンプルな表現こそ、至難の業であることくらい。


 線が多けりゃうまい絵かと。


 芭蕉は言葉足らずかいと。
 ジョビンの傑作『ワンノート・サンバ』のメロディーなんか、サビまで二音階しか出てこないぞ。
 あれはジョビンの挑戦であり、
 知的な遊びであり。
 あれを作曲の手抜きというやつ、果たしているのかね。


 画集が見たいのではない。
 漫画を読みたいのだ。
 それもとびきりおもしろいやつを。
 作り手は描きたいのだ。
 読者がびっくりするようなやつを。
 つい誰かに語りたくなるようなのを。


 さらに突きすすめて言えばだ、
 かつて石森章太郎がセリフの無い漫画は成立するか、その実験をした。
 それについて手塚治虫が、嫉妬むき出しの批判をしたエピソードは有名で。
 そこへいくと誰あろう冨樫のことだ、
 絵の無い漫画というものを、
 捨て身で提議したのではないのか。


 いや、ちがうな。


 仮にそれが「漫画に非ず」であるとして、
 それかどうしたと。
 表現手段を限定してまで、いわゆる漫画であることを最優先すべきなのか。
 あるいは、あくまでおもしろいことを追求するのが重要なのか。
 漫画がおもしろいのか。
 おもしろいのが、たまたま漫画だったのか。
 漫画は萬画(よろずが)である、といったのは誰だったか。
 これも石ノ森だったか。


 漫画の可能性を漫画ファンがつぶしていくなんて、どうかしてるぜ。


 批判なき文化は廃れる。
 だからこそなんだよ、
 批判のピントを合わせんと。
 めっ。



 野田とは違うねらいだが、
 つかこうへいの芝居もジャージで。
 多くを観客の想像にゆだねる、
 というより利用するつくりだった。


 つーわけで、
 おっさんのジャージを批判したところで、
 わらわれるだけですぞ。








 ちがうか。






 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 松本人志大喜利でフリップを使うとき、
 彼、絵はうまいはずなのに、
 あえてくずして書くでしょ。
 字も。
 IPPONグランプリでの解説でも言っていたけど。
 おもしろさの正解のために、そこまでやるのよ。
 プロっつーものは。