壁の言の葉

unlucky hero your key

 がっかりしちゃったよ。
 もお。

 
 あのね、先日、ここで、別役実の著書『演劇入門』に触れたのだ。
 芝居にとっては、その劇空間の感じ方、感じとり方が大切であるとかなんとか。
 で、だからこそ、テレビでの劇場中継は、芝居の旨みが半減するとも。
 役者のクローズアップは表情を伝えるのには便利だが、肝心の劇空間を切り裂いてしまうのだ。
 モンタージュ写真のように。
 別役の本により、そんな視点をありがたく頂戴した闇生なのだが。


 それじゃあ、ちょっくら何か観てみようか、といったところで、今年は希望するチケットのことごとくを逃している。
 振られっぱなしだ。
 とくれば、仕方ない。録画したものをちまちまと観直して、我慢しとこかと。
 いらいらしながらライブラリーを眺めてみると、まだ一度も再生していないものがあるではないか。 


 野田秀樹作・演出の『THE BEE』。
 原作は筒井康隆の『毟りあい』。
 英国人俳優三人に野田を交え、ロンドン上演のために作られた小品である。
 去年、これの日本版と併せて公演された。
 で、たしかトータルで四回だったか、あたしゃ生で観ている。
 出した抽選やらなにやらの、そのことごとくが当選してしまうという、おそらくはこの先の人生の運を、すべてそこで使い果たしてしまったのではないかと思われる事態におちいってしまい、しまいには劇場に、
「通勤する」
 そんな感覚であった。
 うっかり楽屋に、
「おはよござーす」
 とあがり込んで、ちゃっかりメイクでもおっぱじめやしないかと。
 そんな、あまりに『THE BEE』慣れする自分に、呆れる思いをしたものだったが。
 役者それぞれが、日々こまやかな改良をし続けていたので、四回とも新鮮でありつづけたという、その鮮度の確認こそが『通勤』ならではの収穫であったと思っている。


 いや、まじで。


 とまあ、
 それくらい観た後であるからして、これまで放映を確認する気にはなれなかったという次第なのであーる。
 それでだ、
 別役の本を読んだいまこそ、生の体験と比較するいい機会ではないかと。
 そう考えて、いざ鑑賞としゃれ込んだのであるが…。


 まずは日本版から。
 うん。
 劇場で目撃したとおりのことが、そのとおりに映っている。
 役者四人が、それぞれ、いかんなく躍動している。
 それは確かなのだが、なんだろうか。このどっちらけ感は。
 結果を言えば、あたしゃ途中でやめてしまったのだ。
 停止ボタンを押して、しばし腕組み。
 脚組み。
 熱い緑茶をすすった。
 はて、こんな芝居だったっけか。
 だったんだろうな。

 
 そう自分を納得させると同時に、いや〜なことを思い出してしまって。
 放映当時、あたしゃ生で観た興奮をひきずっていて、それが放映されると知るや、ぜひ観て下さいと、お勧めしてしまったのであーる。
 大切な方に。
 ぬけぬけと。

 
 まいった。
 今になって、いや〜な汗を、びみょ〜なとこにかいて。
 おろおろと。
 ただ、おろおろと。

 
 劇場体験のないままに、テレビ放映で感動した経験は、たくさんある。
 逆に、劇場体験をして、テレビ放映でさらなる感動をした経験も、ある。
 なのになぜだろう。
 むろん、録画スタッフの腕前。つまり切り取り方にもよるのだろうが。
 野田は、これから時代がヴァーチャルになればなるほど、生ならではの芝居は活きてくると発言していた。
 リアルを求めれば生に尽きるのだし。
 ましてや空間を自在に活かして転がしてこそ、芝居だ。
 転がされてこそ、観劇だ。
 ヴァーチャルといえども結局は、人間の想像力という受信装置の感度次第。となれば生からつむぎ出される創造は、空間で共鳴し、五感を味方につけてダイレクトに受信されるわけで。


 といっても、コレばかりは優れた芝居を体験しないことには、伝わらないのだな。
 受信の感度も、磨かれない。
 そこがまったくもって、やっかいこのうえなしで。
 なんだろ、自分の最愛のヒトをみんなに見てもらおうと。そう意気込んで写真を撮りまくったはいいが、そのことごとくでヤツはなぜか白目だ。必ず白目。せめて寄り目に、といったところで笑顔で白目をむきやがる。
 その瞬間だけなぜかそうなってしまうのだな。我が愛しきヒトは。
 本来の魅力が伝わらないという、このもどかしさったらないよ。
 いやほんと。




 久しぶりに映画X-MENを観る。
 こういうのは気構えがいらないからね。
 むしゃくしゃしたときには、いい。
 しかし、そんな観かたをするものだから、意に反して、お気楽なソフトばかりが部屋にたまっていくのだよ。



 ☾☀闇生☆☽