旅に出る人。

股旅





 かつて米国がベトナムでの傷を瑕(きず)として省みようとしていたころ。
 たぶんその世情の反映なのか、アメリカ映画は暗かった。
 ネクラでモテナイ青年だった。
 決してそれを嫌って云うのではない。
 むしろその逆。
 そのアメリカン・ニューシネマといわれた若造の魅力について言いたいのだ。
 映画は時代の暗さを吸いとった重さのぶん、貧乏だった。
 ほとばしるほど情熱はあるが、からっけつの青春時代である。
 のちにその反動で、魂まで売り渡す娯楽のたたき売りが始まる。
 と言われているが、はたしてどうだろう。
 VHSになり、
 DVDになり、
 時間の淘汰に耐え、
 語り継がれているのは結局のところ、いまやクラシックとなったあの暗い名作群ではないのだろうか。
 ちゃっかり稼いでんじゃないのかね。長いスパンでみると。
 地球の危機を救ったのはアメリカだ!式のやつって、語られないでしょ。
 楽しんでいるのは観ているときだけでしょ。
 反芻しないっしょ。
 それらはレンタルビデオ時代に作られているから、すでに観客側に主導権があるわけで。
 早送りも、しょんべん休憩もあなた次第だ。
 女王様にとってはカネを払ったM男くんが、お客様なわけで。
 ありていを言えば、奴隷がご主人という。
 となれば自然、作り手は密かに媚びるわけで。
 刹那的なものにならざるを得ず。
 ゆきずりでいいわけ。


 けれども、
 『イージーライダー』とか、
 『タクシードライバー』とか、
 『スケアクロウ』とか、
 『狼たちの午後』とか、
 『ディア・ハンター』とか、
 媚びない。
 もうぱんぱん鞭くれるんだ。
 だっつんだっつん顔騎かますんだ。
 ああ、かますんだ。
 で引きずるんだな、これがまた。
 もちろん闇生はリアルタイムで観たわけではない。
 なのに、ひきずった。
 いまもって尚ひきずりつづけている。
 なぜなのよ。
 たぶんきちんとその時代を真摯にくみ取っているからなのよ。
 言い換えれば、自分たちのよって立つ足元が、フィルムに映っている。
 前面に押し出されるメッセージにではなくて、空気というか、匂いにね。


 だなんて抽象的なこと言ってすまんが。


 そういうものほど普遍性を生むはずなのだ。
 なんか世界公開を意識して、
 いわゆるスタイリッシュでございますってのは、誰の心にもひっかからないのよ。
 ときどきあるでしょ。
 北野武の『Brother』なんてさ。
 いまや無かったことになってるし。
 だったら、そんなのより『3-4x10月』『ソナチネ』『HANA-BI』でしょ。断然。
 『その男凶暴につき』っしょ。
 とってつけた最大公約数を提示されたってさ。
 だからどうしたっていう。
 あ。
 それはたしか黒澤明が言ってたんだ。
 90年代のスパイク・リー(まずは『ドゥ・ザ・ライト・シング』を観よ!)を褒める文脈で。


 でね、
 そのアメリカン・ニューシネマ。
 簡単に言っちゃうと大団円とかを嫌ったものなんだけれど。
 それに影響を与えたのがヌーベルバーグとかいう運動で。
 ゴダールとか。
 説明していると長いからはしょるけど。
 まあ起承転結で脚本を練ってから撮影、みたいな伝統をこわしちゃえという。
 これもこれで功罪あるわけだけれど。


 その気風は、ヴィム・ヴェンダースに受け継がれるわな。
 脈々と。
 『ベルリン天使の詩』で一躍世界に名をはせた人だ。
 『都会のアリス
 『まわり道』
 えかったなぁ。
 リアルタイムで観ておきたかった。
 ロードムービー
 カメラがね、いいんだ。色が。
 小津安二郎を崇拝してるんですよ、この人。
 かつての美しき日本と、小津へのオマージュとして『東京画』なんていうのを撮っているくらい。
 もうね、まずは『パリ、テキサス』を観てよ。
 あの絵(映像)、ライ・クーダーボトルネック・ギター。
 部屋の明かりを落として、映画と対峙してみてください。
 たぶんヴェンダースはそっから入れるから。


 そんな、地に足のつかなくなったアメリカ映画に愛想を尽かした連中というのは、アメリカにもいるわけで。
 ヴェンダースに触発されてジム・ジャームッシュが登場する。
 ヴェンダースの使ったフィルムのあまりをもらってさ。
 こつこつ撮ったは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』。
 あえてモノクロだ。
 音も、余計なものを排除して、間(ま)をいとおしむように使っていた。
 シーンとシーンを絶妙な長さの黒味でつなぐのが、またよくて。
 現代では、日常でも、特に対人関係で間を嫌う風潮であると思うが、どうだろうか。
 この間が味わえるようになると、
 いや、一緒に居てもそんな仲でいれるやつをみつけると、視界が広がるよ。


 先日、これを中古DVDでみつけて購入した。
 監督自らがデジタル・リマスタリングを手掛けて、映像をクリアにしたという触れ込みである。
 そもそもこういう風につくりたかったのだ、と。
 んが、
 観てがっかりした。
 モノクロのハレーションが取り除かれて、鮮明になっていたのだ。
 いや、なってしまっていた。
 あられもなく、すっぴんである。
 そもそもなんのためにモノクロを選択したのか、当人は忘れているのではないだろうか。
 クリアなら良しという感覚って古すぎねーか。
 つーかダサい。
 所詮はあとだしジャンケンである。
 哀れ、老いたり。


 たとえば音楽では、どれくらい汚すかを選択する時代になって久しいというのに。
 ノイズの質と分量もまた、音楽であると。
 巻末に劇場公開時の予告がついていた。
 こちらはさすがにリマスタリングされずにある。
 かつてスクリーンは夢をうつすものだったということを、あらためて認識させるもので。
 そして、このハレーションしたままのオリジナル映像の方がダン違いで魅力的であった。


 でね、
 かつてそんな映画談義ができる環境に恵まれたときが、こんなあたしにもあった。
 ヴェンダースのように。
 ジャームッシュのように、
 スケアクロウのように、映画撮りたいね、て。
 そこでまるで結論のように、ロードムービーへの憧憬を確かめ合ったものだ。
 映画は旅だと。
 旅は映画だと。


 はて、日本では。
 現代では。
 そう考えると、心もとない。
 旅をする。そもそもそれ自体が小さな事件であるから、かつては映画にもなりえた。
 移動の時間が、事件を生んだ。
 けれど、今ではどこもかしこもあっと云う間に到着してしまう。
 目的地も検索できてしまうし。
 着く前に衛星からの映像で、事前に知ることまでできてしまう。
 旅のネタバレである。
 GPSやらカーナビやらで、迷うことすらできゃしないし。
 迷宮というファンタジーは現実のなかにあるというのに。
 『さまよい』そのものが人生の隠喩になっていたというのに。
 お浄土直行便なんて、面白くともなんともないと思いません?
 人生、コレ道草ナリ。
 道草デ緑化運動ナリ。
 落語の『地獄八景亡者戯』じゃないが、たとえ地獄めぐりでも愉しんじゃえナリ。


 だもんだから、無理にロードムービーを作ろうとすると、まず迷う理由と旅の動機探しとなる。
 いやいや、旅を旅として成立させることから始めなきゃならない。
 内田百輭先生に言わせれば、明確な目的があるのは旅にあらず。
 たとえばその土地の温泉に浸かるとか。
 名産のそばを食うとか。
 それらは旅ではない。
 温泉に行ったのであり、
 そば食いに出かけたのだ。


 なんせお遍路すらバスツアーの時代である。
 富士山だって自動車で登るのだ。
 それを拒む理由づくりだなんて、平和ボケ発のものしかありゃしない。
 いきたいからって、はいそうですかと、そのままいかせてもらってどうするの。
 焦らしてこそ女王様だろう。
 いや、王様でもいいんですが。 
 なんの話してんだかわらなくなってきましたが。


 道草をさせろ。
 さまよわせろ。

 
 そう慨嘆していたとき、ふと思い出したのだ。
 『木枯らし紋次郎』。
 市川崑が撮ったテレビ時代劇である。
 あれだ。
 股旅ものだ。
 時代劇のなかなら、かろうじて。
 先日、監督が自ら演出した回を観なおした。
 やっぱあのオープニングにしびれる。


 どーこかでー、
 だーれかがー♪


 そして、手法的にはなんていうのかな。
 静止画を短く連続させて、粗いコマ送りのようにするアレ。
 たとえば野球のピッチングならば。
 セットポジション
 ボールが指から離れる瞬間、
 打球を追って振り返る。
 この三枚の写真をつづけて見せるような。
 監督の得意技である。
 これがね、冴えまくってるんですよ。この時代。
 当時はそうとう斬新だったんだと思う。
 今でも新鮮だ。


 足のわるい少女が居て。
 彼女はそれが理由で、一度も村から出られずにいて。
 なんせ村は険しい山間にあるわけで。
 彼女は、村の外の世界を知らずに一生を終えるかもしれない、と悲観している。
 どこも同じようなものだと紋次郎は教えるが、信じない。
 そんな彼女だが紋次郎との交流のなかで、ほんのわずかなひととき、笑う。
 あどけない、その笑顔。
 それをね、この手法でパッパッと見せる。
 うまいのは、静止画の瞬間の選び方。
 たぶん女優さんが嫌いそうな、一番崩れた笑顔の瞬間をあえて一枚はさむのだ。
 これがね、はっとさせられる。

 
 案の定、紋次郎もそうだったらしく。
 「あっしにはかかわりあいのねえこって」
 お決まりの捨て台詞をのこして、村を去っていく。
 けれど、その彼女の笑顔が、どうしようもなく胸にのこっている。
 一方で、長年村に恨みを抱く村八分がいる。
 彼はやくざものを大量に雇って、復讐にくる。
 殺害、レイプ、やりたい放題。
 紋次郎の信条でいえば、それでもかかわり合いのねえこと。
 のはずだったが、胸に残った少女の笑顔が、そうはさせない。
 振り切ろうにも、振り切れない。
 紋次郎は村にいる少女を救おうと…。


 殺陣がリアルでね。
 スパスパと型で斬る時代劇とは違って、もみあいになって、突く。
 斬っていったら二三人で刃こぼれしちゃうからね。
 突くと肉がしまって抜きづらくなるから、敵に足かけて、それで引き抜いて。
 泥まみれで、格好悪いし、
 本当の殺し合いってこんなものかもしれないと、観る者に印象付けた。


 んでね、
 その紋次郎の元になったのが、ATGで制作された『股旅』。
 いや、股旅を撮りたくて紋次郎をやったんだっけかな。
 ともかく、
 実はこれに触れたくて、以上の長い文章を書いてきた。
 おつかれさまでした。
 これがね、傑作なんですって。
 観てください。
 先のアメリカン・ニューシネマや、ヴェンダースのロード・ムービーに対決できるものが日本にもあったのだ。
 暗いですよ。
 少しもはしゃいでないですよ。
 けれど、不思議とドライ。
 ここでは旅から旅の渡世人の生活を、これでもかってくらいに再現している。
「ごめんなすって」
 のあの作法を綿密に。
 宿での慣例を。
 一宿一飯の恩義で助勢する村同士のケンカを。
 結局は命を惜しんで、群衆にまみれて、闘っているふりでごまかすその小心を。
 主演が小倉一郎
 とまた、そこがリアルではないか。
 主役むきの役者ではない。
 名バイプレイヤーではあるが、ショーケン(萩原健一)を脇にしての主役である。
 それと、尾藤イサオ
 この三人の旅がらすに女がひとり。
 彼女も決して現代風のキレイとしては撮らない。
 傾いだ藁ぶきの屋敷。
 着古した着物。
 擦り切れたワラジ。
 粗末な食器。
 得体のしれない熱意にささえられて、それらは、そこで現実化しているのだ。
 すべてからその時代の匂いがした。
 劇中の時代のではない、
 制作時の匂いである。


 青春の、
 貧しいが、あつい、不滅の若造の匂いが。




 以上、
 死ぬまで活動屋の若造だった、市川崑へのオマージュとして。
 死出の旅路のロードムービー
 きっと黒さんと、語らいながら。


 合掌。



 ☾☀闇生☆☽