壁の言の葉

unlucky hero your key


 時事ネタにもたまには触れようか。


 世間はバレンタインだっていうのに、マスコミは例の裸祭りのポスターで騒いでいた。
 それ自体、祭りのように。
 ポスター否定派曰く「セクハラ」ですよと。
 肯定派曰く「伝統になにを言うか」と。
 だもんだから双方の言い分自体が、ものの見事に食い違っているのだ。
 なにも裸祭りそれ自体をセクハラだと言っているのではなかろうに。
 であるのに伝統そのものを否定されたとして、それに反論する。
 させる。
 残念な現象は、この食い違いを、なぜかマスコミが煽る点。
 毎度おなじみのあははおほほ主義だろう。
 整理せずに、かきまぜる。
 中立を装って。
 視聴者がどちらに共感するかご機嫌をうかがって、同情されそうな側を尾ひれで飾り立てる。
 なんせ視聴率あってのものだから。
 使い古された構図『権力者と市民』。
 『加害者と被害者』でもって。
 視聴者があたまをつかわなくてもいいように。

 
 ポスターのモデルの男に「セクハラと言われてるが」とインタビューする。
 まるでこの男の存在そのものをセクハラだと取り沙汰されているかのようにだ。
 質問自体がすでにそう仮定されているから、こたえもおのずとその文脈に沿うしかなくなる。
 誘導されたがごとく。
 一方で、実はポスターを拒んだ側も、その根拠の発端となった『嫌悪感の正体』がわかっていない。
 マスコミが突っ込んで解説すべきはそこではないのか。
 んが、そんなのにマスコミはかまってられないんだ。
 わかりづらいんだから。
 めんどくさいんだから。
 そんなのは視聴率につながらないんだから。
 あろうことか、果てはポスターを持ち歩き、街ゆく人に印象を訊いてまわる始末。
 そもそもそれをどんな場所に貼り出すのがいけないとされたのか。それを無視して。
 もしくは軽視して。


 昨日のニュース番組では、
 『この祭りがセクハラかどうかを自分の目で確かめるツアー』なる女性たちが現れ、番組はそれに同行取材していた。
 でもって祭りがセクハラかどうか、感想を訊いていた。


 だ、か、ら、


 祭り自体がセクハラだなんて言ってないのだがねえ。誰も。
 だいいちセクハラだなんていうできたてホヤホヤの、まだ固まりきらない価値基準で、歴史の淘汰を生き抜いた伝統の祭りそのものをさばいたら、この世から祭りなんてなくなるでしょうに。
 こうなるとね、もうどんどんこじれる。
 女性問題の研究家なる人がコメントを求められ、あのポスターは男から女への上から目線で威圧的だ、とな。
 おいおい、と。
 ギョーザ問題が飽きられはじめていたから、こじれにも拍車がかかっちゃって、もう。
 なにがなにやら。
 ぐちゃぐちゃよ。

 
 ところでさ、
 祭りって何でしょね。


 ひとつひとつは厳密には違うのだろう。
 けれど、大きく見て、多くが神事でしょ。
 なんかイケニエっぽいものを聖なる存在にささげて、五穀豊穣だとか、無病息災とか、ハッピーを願うのものなんじゃないのかね。
 日夜、生命至上主義にあまやかされるあまり、この世でもっとも尊大になりがちな人間だもの。そう、

 
 人間だもの。


 弱肉強食の最高位だからこそ、その上に聖なるものをいただいてさ。
 いっぱつ謙虚かましましょうって、そういうきっかけなんじゃないのかね。祭りって。


 実るほど頭を垂れる稲穂でもっての、五穀豊穣だ。


 イケニエは獣の血であったり、
 夜を通して踊り明かす狂騒であったり、
 男たちの蛮勇であったりもするわけで。
 時には、うっかり命を落とすこともあって。
 つまり『邪』を『聖』にぶっつけて、その荒々しさでもって大地の神を目覚めさせるとか。
 厄病を退散させるとかではないのかな。
 だとすれば、祭りの現場は野蛮と神聖のかち合う場所なんじゃないのかしら。
 そのガチンコの土俵を『祭り』と、そう呼んでいるんじゃないのかしら。
 あたかも人間の獣性であるセックスによって、ひとつの生命を授かるように。
 一本のご神木を求めて男たちが血みどろになって争うのも、精子がたったひとつの聖なる卵子をもとめて争うさまの再現であると。そう解釈していたのだが。
 あの、なんか開門と同時に一斉に駆け出して、押すな押すなで一着を競うのとかも、ね。
 で、それがゆえに多くが女人禁制なんだろうなと。


「かっこいいとこ見ててよ」
 と精子君は卵子ちゃんに言った。


 死人が出るスペインの牛追い祭り然り、
 ダンジリ祭り然り、
 パレードのエロと犯罪率の上昇するリオのカーニバル然り。
 その一夜、その場だけ、ある種の野蛮が神聖に昇華される。
 それが祭りなんだ。
 ようするに期限付きで日常にゆるされた、非日常である。
 儀式としての無礼講。


 そんな『聖なる非日常』=『野蛮』の現場写真を、『社会の日常』空間に貼り出して、それがどうしたこうしたと論じているわけなんですね。この騒ぎは。
 そこんところをもっと解説してほしかったよ。ぼくちんは。
 あたまのいい人たちにさ。
 日常というものは、非日常との境界がはっきりしていてこそでしょ?
 逆もまた然りで。
 非日常の生々しい現場写真が、日常に貼り出されてもなんら抵抗を覚えないようでは、すでにその境界線は危機にあるとみていい。
 祭りが日常化してしまったということだ。
 それは日常のカーニバル化であり、危機でもある。
 祭りの、死。
 光と影の調和で喩えるまでもなく、ね。

 
 というのも、このあたしがエロDVD屋だからである。
 ときどきモデルさんでいらっしゃるのだ。
「当たり前のことしているだけなのに」
 周囲が騒ぐと。
 でもね、それが本当に当たり前のことになってしまったとしたら、誰もカネをださない。
 モデルさんのリスクに、
 その非日常性に代価は払われているのだし。
 ひいてはそれがギャラになっている。
 カップ麺と同等のものを、わざわざ行列のできるラーメン屋に食いには行かないのだ。
 実際、すでにタダ同然でネットに出回ってるから、エロ(非日常)はどんどん麻痺される一方なんだから。
 ただ同然で『非日常を日常化』しようと躍起になっている人たちが、『日常を非日常化』していくわけで。


 あああ、ややこし。
 ようするにこっちゃ商売あがったりなのである。

 
 そんなこんなで日常のそれがあやういとなると、人は非日常をもとめて過剰になり、
 たとえばS性ならば―、
 追い詰められて更なる本当のS性を求め出し…。
 獣性の坂道を転げおちるように加速して、
 それは決して相手を満足させない、
 相手のM性と補完関係を生まない、
 となると対象を幼児に限った、
 達成したら最後、ひっこみのつかない、
 昨今増える一方の…。


 おやおや。
 話題がダークになっちゃいましたね。
 なんせ闇生ですからね。
 つづけましょうか。
 やめましょうか。
 あ、そうか。
 カラマーゾフの兄弟を新訳版で読み直したんだ。
 あれの影響だな。
 と、いうことにしつつ。

 
 

 ようするに、その抑止として境界線を設け、非日常を限定するのだ。
 『祭り』として。


 話を裸祭りに戻しやしょう。
 結局、祭りの当日本番では男たちの『まっぱ』まで取り締まろうか、という流れにまでこじれた。
 祭りを日常の価値基準でさばいちまおうと。
 マスコミがたかったから、これが大ごとになった。
 非日常の現場に、日常の法律がなだれ込んできたわけだ。
 あわれだのぉ。
 歴史の淘汰にたえた伝統というものは、時間軸でみる統計学としても解釈できるわけで。
 それが刹那的なおもしろ主義で、パーだ。
 踊る阿呆に、見る阿呆。で言えば、終始見ているだけの阿呆が、踊りの現場をぶち壊しにした。
 これほど野暮天なことは、そうない。


 
 
 『嫌悪感の正体』。
 あのポスターに、日常人の道徳心が逆なでられたのならば、それだけ写真は祭りの実態を見事にとらえていたということ。
 あの祭りは活きている、と。
 いまのところはね。




 ☾☀闇生☆☽