壁の言の葉

unlucky hero your key

 以下、のたまう。

 
 たとえば楽譜。
 あれは、紙の上におたまじゃくしの『記号』を並べただけにすぎない。
 けれども、音楽家がこれを読めば、
 その頭の中でたちまち記号は『音』に化ける。
 この時点では黙読にすぎないのに、鳴るのだ。音が。
 しかし実際は記号を手がかりとしてその響きをイメージしているだけ。
 あたりまえだのクラッカーだが、音というものは空間を必要とする。
 振動できる空気を渇望する。
 そもそものところ記号はそのために記されているわけで。
 そこで、彼は演奏するわけだ。
 たとえばピアノで。
 作曲者の綴った音符のひとつひとつ。
 その音程。
 長さ。
 休符。
 テンポや強弱の指定に沿って、
 紙の二次元から、空間へと、片っぱしから記号を解き放っていく。
 その譜面にあるのは、つくり手による音の指定のみである。
 それらは言わずもがな、過去から届いた。
 が同時に、
 演奏者の筋肉の運動を指定してもいるわけで、
 規定されてもいるわけだ。
 むろん解釈や、能力の差によってズレは出てくるだろう。
 そしてまた、そのズレが時として味わい深い愉しみにもなるわけだが。
 ここではそれは置く。


 作曲者の指定した楽器を、
 その音程の鍵盤を、
 指定された長さで、
 速度で、
 強さで、
 あるいは弱さで触れる演奏者の指も、
 当然、作曲者の想定した指であったりする。
 お父さん指か、
 はたまたお母さん指か…。
 そこには主従の関係が厳然として、ある。
 とはいっても、ネガティヴな意味のそれではない。
 二次元の記号を空間へと解放してやる、奉仕の労働。
 主従そろってのボランティアなのであーる。


 自由は制約から生まれる。


 その関係は、ボケとツッコミと言い換えられるケースだってある。
 的確なツッコミあって、ボケのイリュージョンが活かされるわけで。


「絵画の本質はその額縁にあり」


 とは、作家のチェスタトンが言ったのだそうな。
 自由というものは制約のさじ加減にかかっているわけで。
 ゼロでも、大きすぎてもいただけない、と。


 はて、
 あたしゃ何が言いたいのか。
 繰り返すが、
 はばかりながらエロ屋である。
 この関係になにかしらエロティックなものを見出してしまう、そんないけない想像力の持ち主だ。
 なんせ『主・従』ですよ。あーた。


 いやね、
 なんでも日本で黙読が習慣となったのは、歴史的に見て、ごく最近のことなのだそうだ。
 たしかに誰もがまずは音から教わった。
 文字が生まれてからこっちがわ、
 それまでの圧倒的に長い歴史のなかでは、音読が常識で。
 読む行為。それすなわち朗読だったのである。
 だから、文字という記号は空間に解き放たれて『音』になってこそ、意味を持った。


 文字は声だった。


 で、
 それはつまり書き手による口や、
 舌や、
 横隔膜の時間的な運動指定でもあったわけだ。


 文章は楽譜だった。


 読み手はそれに従って、
 あるいはゆだねて、操られてやる。
 たとえば、こう発音してみてほしい。


 ぺろんちょ。


 どうだ。
 あほくさかろう。
 んで、恥ずかしかろう。
 けど読む以上は音にしてやってくれないか。
 それでこその言葉なのだから。
 で、
 まずは「ぺ」での唇の閉じ具合。
 そして吐息にはじかれる唇の、開かれていく速度。
 その濁音と半濁音を使い分ける絶妙で絶対的な加減。
 しかるのちに濡れた舌先を口蓋前部にあてがい、
 唇は輪を形作り、
 舌先の落下とともにその奥から吐き出されてくる生温かい「ろ」を待ち受ける。
 以下「ん」「ちょ」と続くわけで…。


 唇と舌というものは、
 つまりそのぉ、
 受信器としてセクシャルな一面を併せもつわけですから。
 ばかりか呼吸までも書き手の思うがままに時を超えて操られるというのは、いやはやまったく…、もお。
 えっち。


 口淫矢の如し。
 
 
 早口ことばとか、ことば遊びとか、
 それ自体にはあまり意味がないでしょ。
 大人になるほどそう頭で考えてしまうから、つまらなくなるわけで。
 けれども子供の場合、理屈なしにまずは発音しちゃう。


 ぱっきゃらまーどー、
 ぱっきゃらまーどー、
 ぱおぱおぱっぱっぱっ!


 だもんだから体で知る。
 それが過去から直送されてくるたのしい愛撫であることを。
 それが理屈よりも大事な何かであることを、受信しているのだ。
 そりゃあ、おもしろがって当然よ。


 手紙のやりとりというものは、かつてはそんな関係づくりでもあったのである。
 意味の伝達はもちろんのこと、
 同じ運動を、
 触感を、
 音を、振動を共有するのだ。
 書き手と読み手が。
 ならばもうこの際だ、共有しているのは空間だと言ってしまおうじゃーないか。
 だもんだから、日本語には言霊なんていう概念があるんじゃーないか。
 言葉には霊魂が宿ると。
 二次元から空間へと解き放たれた『意味』だもの、それくらい宿って当然じゃーないか。

 
 声は、鳴り響くことができる空間を欲する。
 すなわち言葉は、空気を渇望する。
 まるで生き物のように。
 だからなのか『肉声』という。
 なんて生々しいんでしょ。
 一方『死語』なんていう。
 久しく空間に吐き出されなかった言霊は、死んでいると。
 「あたりまえだのクラッカー」は、酸欠だと。
 だれが殺したか知らないが。
 なるほど、重いはずである。言葉。


 で現代よ。
 ケータイのメールを電車の中で音読している人には、さすがに出くわさない。
 出くわしたくもない。
 あそこでやりとりされている言葉に、音は無い。
 じゃあ、魂はどうなのじゃ。
 いやいや、かくのたまうこのブログだって。


 言霊は何処へ?


 となると『音』にされるのを想定して書かれる文章というものは、もはや台本や戯曲(演劇用台本)ぐらいのものなのではないだろうか。
 言葉を音として解釈している証拠なのか、戯『曲』というくらいだし。


 今日、あなたの受信トレイに届いた誰かさんの、その想い。
 空気欲しがってませんか?
 たまには先人にならって音にしてやっておくんなまし。
 それはそれは、
 結構なエロティック体験でございますから。


 ね。

 
 ☾☀闇生☆☽