そら、そこにご老人がゆく。
腰は、すでに曲がっている。
そして、膝の痛みをこらえるように、湾曲した足でそおっと歩いている。
響くのだろう。できるだけ衝撃をさけて、えっちらおっちらと。
正直、のろい。
方向を変えるのすらも大儀そうで、周囲を確認し、しかるのちに少しずつにじり寄るようにしなければ行えないようだ。
その、身体のふしぶしへのいたわりようは、痛々しいほどだが、同情してはいけない。
断じて。
甘やかせばますます老いを深めさせてしまうから…、ではない。
なんせ『彼』はロボットなのである。
ホンダが開発した二足歩行ロボット『ASIMO(アシモ)』。
その新世代機が発表になったとのことで、朝からテレビ各局はこの新型『ご老人』のえっちらおっちら具合を見世物にしているのである。
曰く、
「一家に一台の時代を目指す」とな。
この日本の住宅事情でか。
曰く、
「簡単な接客業ならこなせるようになった」とか。
ほおお。
と、そこはひとまず驚嘆する。
同じ店員として。
ついで、こう思う。
俺なんか、要らなくなっちゃうなぁ。
うかうかしてると職を奪われてしまうわい、と。
ならば同情なんぞしている場合ではない。
ロボットと見なすから、
「おじょーず、おじょーず」式に甘やかしてしまうのだ。
ほんとにあのレベルの店員だったら、どうですか。
急いでるときなんか、イラッとしませんかね。
苛立ったってもう、からむこともできやしない。
にしても思う。
彼らが、さながら疲れを忘れたご老人のようにのべつ働き通すのであれば、いっそ本当に疲れるご老人を雇えと。
むしろそのご老人の疲れをロボットにいたわらせろ、と。
でもって、日々生存していることそれ自体を『目的』とさせられているナマのご老人に『手段』として生きる喜びをもう一度味わっていただきましょうよ、と。
さらにはこうも考えてみる。
科学技術に力を注ぎこむのも国の責務だろうが、雇用の拡大もまた国の義務ではないのかしら、と。
ねえどうなの、カシラ! と。
われわれのような単純労働者の層を、つまりは底辺を、できるだけ広く拡大しておかんことには、なんというか、ダサいでしょ。
なにがって、この国のふところの深さ具合がさ。
日本のガソリンスタンドの大多数がセルフサービスではないことの効果は、結果としてそのへんのダサさ解消に表れていたわけで。
町のレンタルビデオ屋が軒並みネット式宅配レンタルに蹴散らされていく一方で、日ごと新聞が読まれなくなっていくご時世。
それはお気楽なバイトの象徴と、苦学生の象徴である新聞配達が、将来的には消え行きつつある兆候なのだし。
って、おいおい。
そこまで熱くなるなという話なのだろう。
実のところ、あのASIMOの歩く姿が、かつての勤務先の役員(故人)に、どうしようもなく似ていたのである。
老人への連想は、そのためだ。
戦時中は軍艦の厨房で包丁をふるっていたそうだ。
終戦はシナの洋上でむかえ、裸同然で帰国するやヤミ米に手を出した。
しょっぴかれ、のちに足を洗って築地に流れ着く。
その後、料理屋を渡り歩き、やがてささやかな家庭と一軒のラーメン屋を持つにいたる。
後年、独立した息子の商売が当たり、それをきっかけに長年勤めあげたその店を閉めた。
出資をした息子の会社で、肩書きだけの役員となったが、さて、やることがない。
奥さんを亡くし、それを追うように愛犬も逝ってしまうと、ぽつん。
取り残されてしまった。
そうなると、毎日各店舗を見て回っては、店員相手に愚痴をこぼすほかなく。
曰く、
「俺はただの糞尿製造機だ」
生存しているにすぎない、と。
長年の立ち仕事のせいだというすっかり湾曲した足で、えっちらおっちらと歩いてきては、そう自嘲したものである。
思い出す。
差し入れには必ずコカ・コーラがあった。
若者への差し入れといえばコーラと相場が決まっている、そんな世代なのだ。
それとなんかお煎餅的なもの。
若いバイトたちはそのセンスの古さを陰で嗤ったものだが、そういうのを嗤う奴に限って差し入れなどしたことがないわけで。
もとより元軍人のさりげない心遣いを嗤えるような奴は、いない。
話がそれた。
引退は息子の強い勧めによったという。
年寄りが鍋釜叩いているのが、見るに忍びないとかの理由で。
むろん、親孝行のつもりだろう。
しかし当人は、
「ほんとなら、まだ働けた」
と、ことあるごとにこぼしていたっけ。
店はたいそう繁盛していたそうな。
ならば細々とでもラーメン屋を続けていたなら、愚痴に明け暮れる老後も、あるいは無かったのかもしれず…。
この、
独り暮らしの元軍人の最期がどうであったか、転職したあたしには知るすべもない。
ならば新型老人Aにとっては、まったくもって関わり合いのないことで。
ただただ、輝く未来の象徴として、えっちらおっちらと。
☾☀闇生☆☽