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化けろ。

 「映画化」という言葉が野放しになっていることは、まえにも書いた。
 実際は「実写化」というたかだか翻案、……もとい、コスプレ大会にすぎず、映画化をうたうにはほど遠いものばかりで。
 奇妙なのは、原作とされる漫画や小説よりその実写化とやらの映像が、あたかも表現として上位であるかののたまいである。
 にしてもなんなんだこの『化』というのは。


 たとえば黒澤の『赤ひげ』は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』の「実写化」あるいは「映像化」と宣伝されたのだろうか。
  

 映画にする以上は、映画ならではの表現ポイントがそこにあるとふんでのことであろうに。
 原作に求めるべきは、そんな映画のモトである。
 究極にはそこだけがほしい。
 媒体がかわるのだから、隅から隅まで原作のままというのはありえないのだし。
 仮に「原作のまんま」という感触を抱くのなら、それはデジャヴュのようなもので、そこにいたるのに相当に大胆な変換作業がなされているからこそだ。
 そんなとほうもない原作への迎合、隷従をしてまで劣化コピーを量産するくらいなら、映画ならではのものを見いだして作りあげるのがよっぽどサービス精神があるというもの。






 だもんで原作者監修だなんてのも、噴飯ものなのであーる。
 あれは人気ラーメン店の店長監修のカップめんのようなものにすぎないと思ふ。
 ほんとにその味がほしければ、店に行けばいい。
 あれではもうカップめんではない。
 ただのなんちゃってラーメンである。
 食ってるこっちがひもじい気持ちになるよ。
 カップめんはカップめんを極めればいいだけのこと。
 店売りのラーメンを目指すな。
  
 




 余談ながら、
 その昔、シンセサイザーというのは実在の楽器をシミュレートする役割が大きかった。
 まるで本物のバイオリンみたいっ、とか。
 ドラムみたい、とか。
 それがサンプリングの登場によって、それらの代役から解き放たれ、シンセはシンセならではの居場所を占めた。
 アナログシンセがいまだに重宝されているのは、まさにそのためである。
 
 


 ☾☀闇生☆☽