今泉力哉監督作『たまの映画』テアトル新宿にて


 たまを知らない世代にも、
 とどこかに謳われていたが、はてしてどうだろう。
 いろんな事情がはたらいたのか、映像は現在の元たまそれぞれの活動に終始している。
 むろん元メンバーの口からは回想も語られる。
 がしかし、
 四人たま時代の演奏シーンは一切使用されず、
 ばかりか三人たまの映像すら頑なに使用されないとは。
 また初期メンバーの柳原がこの映画への出演を断っていることが、たまといういびつながらも大らかな空気に水を差してもいて。
 それもまた生のたまなのだろう、
 という了解がまた、たまに接するわきまえであり、ひいてはこの映画の観賞法ではあるのだな。
 んが、
 繰り返すが、
 たまを知らない世代や、
 四人たまの、それもあのブームしか知らない人たちに対しては、不親切ではないかと感じた。
 単なるノスタルジーだけの映画をつくるのは避けようという姿勢は、わかる。
 わかるのだ。
 現在を見ろと。
 うん。
 ところが現在というヤツは、たったひとつの例外もなく過去の上に立っているもので、
 流れの先っちょとしてしか解釈できないものなのだ。あたしたちゃね。
 本来ならばたまのアマチュア時代の写真。
 その頃の音源。
 滝本加入後の音や写真。
 イカ天とその後の演奏。ついでにその喧騒。
 メンバー脱退後の三人たまの映像。
 解散ライヴ。
 少なくともそれくらいは本編中にさらりとおさらいした方がよかったのではないだろうか。
 テロップだけではなくね。
 そうした上での、現在だ。
 なんせ映画とは時間の芸術で。
 いわずもがな視聴覚の体験なのですから。
 個人的には、それらの説明なく解釈できるレベルのファンではあるので、元たまの情報としては興味深かった。
 サッポロビールを湯呑茶碗で、それも正座でいただく知久のたたずまいは可愛かったよ。
 滝本のもつ美意識と知久のそれがあまりに対照的で、良い。
 美意識なんて言葉、彼らは嫌うはずだけど。
 それでこそバンドなのだな。
 まあ、『元』だけど。
 ただ、
 上記でのたまった云々は、
 『公開』という言葉が示すとおり、映画と言う表現方法をとった以上は、ある種の閉塞性をもったファン通信ではなく、おおやけにむけられたものであるのだし。
 また、そうあってほしいと。
 あるべきだという、えらそーな願いからであーる。
 ただし断わっておくけど、
 その願いは商業主義へのアンチとしての生き方がまさしくこのフィルムなのだから、どーしても矛盾しちゃうんですけどね。
 ええ。
 








 知久が代弁したたまの死生観に膝を叩き。
 柳原評に、ぐっときたぞ。


 ☾☀闇生☆☽
 

 追記。
 つい見過ごされがちな三人たまや、
 そのアコースティック版しょぼたまが、やはりここでも飛ばされている。
もったいないなあ。
 
 
 あわててさらに付け加える。
 たまの登場の衝撃というのは、いまでも覚えていて。
 個性だ、自由だという癖に、バンド編成から髪型からファッションから言動までが形式化され、たかだかその模倣にあけくれていたのが当時の日本のロックだった。
 ロックが自己模倣を繰り返して、酸欠していたのだ。
 有体に言ってダサかった。
 いまはどうだろう。
 ともかくそんな事態に辟易していたところへのガツンだったのだ。
 ご多分にもれずあたしゃあのイカ天での演奏にやられたクチである。
 素直にかっけー。
 あっけにとられて、
 翌日、
 同じツェッペリン好きの友人と興奮して語りあったのを覚えている。