DVDで持っているからべつにいいや、
と思っていたのだが、のべつ幕なしに自粛づくしの日々だ。
途中からチラ観したら、最後まで観てしまった。
POSTYMO~Yellow Magic Orchestra Live in London 2008 +~
POSTYMO~Yellow Magic Orchestra Live in London 2008 +~
限定配信期間:5月1日(金)~5月29日(金)
なんとはなしにチャットを眺めていたのだけれど、
やはり今でもいるのだな。
グリークシアターのようなときの演奏を! な人たち。
東風やれ! 的な。
他で観られるじゃんな。
黒澤明がインタビューで発言していたが、
日本でインタビューを受けると、やたら「七人の侍のような時代劇をまた撮って下さい」だとか「用心棒と比べると云々」という具合に過去作と比較する人があまりに多いと。
インタビュアーのレベルの低さに呆れていた。
彼らは映画の個性を否定している。
海外ではそういう質問はそもそもタブーであると(黒澤は「ピーだよ」という表現をした。)。
『七人の侍』は『七人の侍』であって、あのとき、あの時代の状況、スタッフ、出演者もろもろの条件のうえで生まれるべくして生まれたものであって、それをまた持ち出して、あんな映画を撮れだなんてのは、うん、野暮といいたかったのではないか。
『影武者』は『七人の侍』と比べると云云かんぬん。
的な声もいまだに良く聞く。
作り手としては「今度生まれてくる子は、腹ちがいの長男のような子を産め」と言われているようなもので、失礼千万!
それこそ「ピー!」だ。
子どもの個性を全否定されたような気になるに違いない。
あたしもYMOのファンをやって長いが、
それはもう『愛』も『憎』も交えて語ることができるが、
彼らに教えられた重要なことのひとつ。それは変化することが実は自然だということ。
「長男のような子を、また産む」のは自然なことではないだろう。
「先に生まれた子とちがう」からという理由で次の子を否定するのか。
その「長男」だって成長してしまっているから、子ども時代は記録のなかにしか存在しない。
若いころは変化というものを毎回コンセプトで理屈固めして作り出していた彼らだけれど、
そのコンセプトとやらも、そのときどきで気持ちよい音を探求する姿勢ありきのものだ。
その合致を彼らは『実験』と呼んだのに過ぎない。
ならば懐メロや再現は、不自然だろう。
再現である以上、ベースとなった過去のデータを超えることはできまいて。
自己模倣は創造にあらず。
長男は長男。
次女は次女。
ここでの演奏も、このときにしかできない偶然の積み重ねで成立している。
再現と懐メロをやらされつづけるアーティストをみるのは、つらくないですか。
いい歳こいて、豪邸に住んで、孫までいるような大御所が、老体に鞭打って若いころの不良のイメージを演じ続けているのとか。
あるでしょ。
飯の好みも、好きな作家も、音楽も、そのころとは変化あるいは増えているのに、同じ表現をしろというのは無理がある。
IN PUT が変わればOUT PUTも変わる。それが摂理だ。
そもそも細胞もすべて代謝して入れ替わっているではないか。
老化もまた変化である。
グリークシアター?
80年ワールドツアー?
ウインターライブ?
懐かしいとは思うよ。
けど再現したいだなんて当人たちこそ思わんだろう。
やりたくないものをやったところで、楽しいはずがない。
出来がよくなるはずがない。
子は、それぞれに生まれるべくして生まれてくるのです。
闇生