あれ?
日記の日付け間違えてた。
ひとつまえの記事も、今日書いたやつです。
雨・中で休日になってしまったので、床屋に。
その帰り道、
井上雄彦の『リアル』の新刊を、コンビニで購入。
涙す。
でもぎりぎりだな。
ときに、使い古されてお安くなってしまったポジティヴシンキングが出てきたりして。
それはそれで否定するつもりもないのだが。
そのぎりぎり感、不安定さに緊張した。
こわれないでね、と。
どこか停滞感のある一巻でもある。
ディスカスでレンタルした『モンガに散る』。
台湾の青春任侠映画。
もっと本格的に映画映画してくれると期待していたのに、案の定、くさい。
エンタメ手法が、うるさい。
青春っ、仲間っ、てな押しが使い古しの使いまわしであふれていた。
むろん、どんなに良い映画でも過去の模倣の上に成り立っているのはわかっている。
それが消化しきれてないままになぞるから、ちょっとつらくなる。
ジュリアン・ムーア主演『シェルター』。
多重人格の殺人犯に立ち向かう精神分析医という役柄を彼女が演じるのだが、同じく彼女が主役を張った『ハンニバル』と役どころがかぶってしまって、その時点ですでにペナルティがある。
否応もない二番煎じ感。
彼女は多重人格を、罪逃れのための演技であるとみるのだが、犯人の周囲にオカルトチックな死亡事件が相次いでいき……。
このオカルトをオカルトのままにしてしまったのが敗因だろうか。
とりわけ犯人と被害者のあいだに、スイッチが明確に描かれていないのが、致命的だと思う。
変死のスイッチである。
たとえば黒澤清の『キュア』なら、犯人があるサインをする。それがスイッチとなって対象者は催眠状態になり加害者へと変貌する。
古くはわら人形に五寸釘とか。
オカルトならオカルトでいいから、そういうルールを設けなくてはならない。
映画という遊びは、自由がつくっているのではない。制約が生むからこそ緊張感が保たれるのだ。
この映画なら、背中にマークを記すとかあれば、まあわかる。
それを避け続ける限りは安全と。
ともかく、映画としてあまりに二流。
仮に『ハンニバル』が名物ラーメン店の人気メニューなら、この『シェルター』はその店が許可したカップ麺版といった感じ。
韓国映画『息もできない』。
すまん。
最後まで観ていられなかった。
たしかに作り手の若さと収まりきれない情熱は伝わってくる。
が、それは未熟とも言うわけで。
もうちょっと洗練してほしい。
で今、
気分転換のウォーキングから帰還。
i-podのarukeフォルダを久しぶりに堪能す。
Detune.『テューズデイズ』でフィニッシュ。
猛烈にピザが食べたくなる。
ドミノのメニューを睨みつつ、
こらえて蕎麦をすする。
☾☀闇生☆☽