なんか普通の監督になってしまった感がある。
『普通の監督』というのも随分な物言いではあるのだが、とどのつまり「おっ」と思うところが無い。
むろん普通にエンタメを撮ろうとしたのはわかる。
わかるのだが、それでも隠しきれない『作家臭』が匂っちゃうものではないのか。
前作からいわゆる豪華キャストを配して、売るための盤石の布陣で挑もうとしている。
それはいい。
それはいい。
なにもアート系なものばかり求めようとは思わないし。
けれど、あの豪華キャストのなかでも目を引く仕事をしたのは椎名桔平など実はわずかで。
印象に残るのは、便所で殺されたまるでやくざには見えない髭のやさ男とか。
映画のあとにひったくりで捕まっちゃった坊主のやつなど、知名度の低い役者たちばかりだ。
今作では木村の舎弟ふたりが辛うじて光っていたくらい。
ふたりとも無名とは言い難いが、西田敏行を前に有名とも言い難いクラス。
あの二人をメインに話を膨らませたほうが良かったのではなかったか。
それだと『キッズリターン』になってしまうかもしれないが。
そもそも、「プロっぽさ」という手垢を嫌ったところに、武映画の武らしさは立脚している。
出発点と言い換えてもいい。
『Hana-bi』を観た市川準が「これ以上うまくならないで」といったのは、その意味においてのことであったはず。
会話シーンにしろ、得意のはずのバイオレンスシーンにしろ、まるで普通に感じるのは下手になったのではない。
悪い意味で、うまくなっちゃったのではないのか。
もとい、うまくなりたがってしまったのではないのか。
うまさは、思うさま仕事をしたその結果として光るものだ。
なりたがりの経緯そのものではない。
「うまくなりたい」
その学びの精神は模倣から始まる。
まなぶはまねるだ。
共通言語といえるまでに研磨された模倣に、そのまた模倣を幾重にも重ねてひっかき混ぜた重層構造が、映画だろう。
思えば彼、三十を過ぎてピアノを習ったり、タップを学んだり、芸にも職人気質を求めずにはおられないタチである。
憧れている。
憧れは、己の不足を補完しようという願いだ。
監督としての出だしからして畑違いの彼だもの、ならば映画にもそれを求めないわけがない。
それが職人気質といういわゆる「プロっぽさ」であり、同時にそれは彼が初期に嫌った「手垢」という一面も持ち合わせるのであーる。
歳をとると「奇をてらった」ことがうるさくなる。
シンプルに心地よさを感じる。
けれど少なくともショービジネスである以上は「驚かせたい」という奇抜の衝動は必須だ。
若き日の奇抜は、無知がゆえにできること。
それも幸せだと思う。
しかし好奇心が強くしぶとければ、いつしかそれが模倣に過ぎないと気づき、本当の奇抜への遠さを知る。
その礎となる伝統という名の模倣の蓄積に圧倒される。
問題はそこで手垢の海にうずもれないことか。
たゆまず新陳代謝させつづけることだろう。
たとえばピアニストやアスリートや格闘家が技術の研鑽に明け暮れるのも、その技術が技術と自覚できぬほどの境地をめざしてのことではなかろうか。
考える前に手足が動くようになるために、考え尽し、反復して動く。
根がまじめだから研究するのだろうけれど、考え尽した彼がいつしかそこから解き放たれたならば、もうひとつ化けた武映画が観られるかもしれない。
えらそーにのたまっちまおう。
昨今の彼の作品は頭でっかちだ。
追伸。
○バイオレンスシーンにいつもの痛みが無い。
身体的にも。
精神的にも。
襲撃する側が返り血、ならぬ返りキズくらい負うリアルは欲しかった。
一方的なシーンばかりだ。
○視覚的遊びが無い。
○総じて遊びが無い。
追記。
在日コリアンマフィアのボス役の人が、素人だと知って驚いた。
演出の妙も手伝ってか、静謐で、不思議な雰囲気出してたよね。彼。
怒鳴り散らすやくざばかりのなか、ただものじゃないというアクセントになっていた。
えらく印象に残っている。
☾☀闇生☆☽