「落ち葉は風を恨まない」
勝新版『座頭市』最終作での言葉。
盲目の座頭市との交流を経た武士の旦那が、市の竹水筒に書きのこした言葉だ。
当然市には読むことができず。
が、のちに知り合った孤児の娘お梅がこれをみつけて市に読み上げてやる。市は関心するのだけれど、お梅は自らの境遇を重ねてこうつづけた。
「いいえ。落ち葉は風を恨みます」
この言葉、
遡るとテレビ版の『座頭市』でも使われていたという。
そこで森繁が演じた老渡世人は、こう続けた。
「なぜなら肥やしになるから」
恨む、としたお梅はまだあどけない。
その不遇から恨みを心の杖にするのも仕方がない。
なんせ自らが孤児であり、年長がゆえにおなじ境遇の孤児たちをあつめて世話をしているという設定である。
どうやら地元のやくざがパトロンらしく、行く行くは売られる身らしい。
梅は咲いたか
桜はまだかいな
恨みを原動力にしようとする人たちは現実にもいる。
境遇や社会や他者への恨みを推進力の糧としている人たち。
しかしそれもまた依存のひとつで。
恨むことで、頼っている。立っている。
知らずに『敵』のおかげで生かされている。
だからこそ恨みや憎悪を餌にして人を操ろうとする人たちが存在する。
恨むことで立つ。
それは本来の自分から逃げていることにほかならない。
誰であろうと自分からは絶対に逃げきれない。
どれだけ逃げても、いつかは必ず追いつかれる。
風を味方につけるには、風を読むこと。
しかしそれはなかなかに難しい。
風に心はないのだから。
風に逆らわず、とはいえ流されず。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
けれどそれは決してカツわけじゃないんだ。
風を、
世間や境遇を、
恨みや憎しみの対象にしちゃだめだよ。
☾☀闇生☆☽