作品と観賞者が一対一で対峙している。
その関係性において作品は作品になる。
いや、なろうとするのであって。
たとえ作者であってもその関係性には入り込めない。
むろん感受性や理解のエスコートとして評論だの解説だの創作の裏話や作者の思想的背景、生い立ちへの介入を観賞者自らが求めることはある。
そしてそれも決しておろそかにはしてはならない。
くわえてそれらに対して社会的な制限も許してはならないのだけれど。
作品と観賞者というタイマンの関係性においてはそれらはあくまで参考に過ぎない。
おろそかにしてはならないし、むしろ敬うべきだが親族や兄弟はパートナー当人ではないというようなことに似ているだろうか。
ここでの『作品』は、
たとえば小説であり、
詩であり、
曲であり、
音楽であり、
芝居であり、
映画であり、
陶器や絵画でもあって、
一杯のラーメンだ。
妙なスローガンを前面におして拳を突き上げたり旗を振ったりして『ふたり』の関係をぶちこわさないでくれ、と思う。
いや、願う。
今年もよろしく。
☾☀闇生☆☽