今頃になって、観た。
やっぱ観とかんとなあ、というやつで。
前にもどこかに書いたが、
ツッコミやテロップ、それに加えてスタッフや観客の笑い声という、
「はいここ笑うとこですよー」
という笑いのガイダンスに依存しているテレビ中毒層は、ここでも残酷に切り捨てていた。
爽快。
さすがである。
んが、
果たしてそうやって作られたものが映画的であるかは、別の話なのであーる。
原則的にタダであり、受け手の労力すらリモコンの操作程度で、ばかりか作り手側から我々の日常のなかに踏みこんできてくれるテレビ娯楽と、
お金と労力を使って時間的にも空間的にも制約されなければありつけない映画娯楽とは、そもそも別だ。
チケット代と交通費と、上映時間に合わせた移動労力と、口臭や体臭もふくめた公的気遣いから上映中の座席でのお行儀などなど。
テレビはいわゆるS的に観ることができるが、
映画はM的に対峙しないと、成立しないということね。
外食とデリバリー。
それを踏まえたうえで以下、のたまおう。
彼の過去のビデオ作品もまたそういうテレビ中毒者への「突き放し」に終始していた。
だから観る側のあたまに健全なツッコミが宿っていなければ、退屈このうえない。
と知った上でも作品によってはやはり退屈感の否めないものがあって。
問題は尺とテンポだろう。
基本的にこの人は、
というか笑いというものはもともと短距離走であって、決して長距離走的な産物ではないということ。
たとえば『ごっつええ感じ』で放映された数々の名作コントのなかに、伝説の長編がある。
「トカゲのおっさん」。
その最高傑作である第一話はたしか四十分ほどだったか。
あたしゃテレビの前で度胆を抜かれ、
抜かれつつ、それまで感じたことのない笑いに戸惑い、
スタッフの「はいカット」という声でコントが終了したときには、全身に鳥肌がたっていた記憶がある。
収録がノーカットであるということがことさら強調されていて。
けれど、それでも放映上CMは入るのだ。
おそらく松本はこのCMによる中断をもどかしく思っていたのではないのか。
けれど、
その中断のたびに視聴者は少しだけ緊張が解かれて「え? いまの何? 笑っていい……んだよ……ね?」
とあたまを整理する猶予を得ていたのだ。
そもそも現場のスタッフ笑いが、視聴者のとまどいをほぐす役割をしてもいたが。
よって長編ではあるが、このインターバルによってテンポが保たれたのであーる。
さて、
その制約から解き放つと、どうなるのだろう。
短距離走者にフルマラソンを走らせるようなものではないのか。
100メートルダッシュの連続で、42.195キロを一気に走破させる、とかね。
作家、村上龍が確かその著書のあとがきで述べていた。
自分は長距離走タイプではない、と。
ようするに長編が書けない、と。
ではどうやって長いのを書いたらいいのか。
短距離の全力疾走を毎日つづけて、その延長として42.195キロを目指そう、と腹を決めたのだそうだ。
ただ、小説なら章という小さな中継点を想定することができる。
20本目の電信柱なり、コカ・コーラの自動販売機なり。
すればいくつもの小さな起伏と、それらを内包した大きな起伏が想定しやすくなるだろう。
読者もまた、それに合わせてペースを作ることができる。
そこへいくと映画は小説以上に時間の芸術として強制的である。
原則として中断がゆるされない。
仮にDVDなどで「今日はここまで」的な観賞の仕方ができるとしても、そうされた時点で映画は「負け」だ。
ということは露骨な節目というものを意識させずにペース配分と起伏を編み出さねばならない。
んで、笑いの場合。
松本のつくる小さな笑いは、ここでいうところの小さな中継点足りえないのだ。
少なくとも大きなゴールを目指すための小さなゴールにはなっていない。
だから疲れる。
仮にギャグがひとつ漏らさずにすべて受けたとしても、疲れる。さては、
長距離の走り方をまだ会得していない。
先は長いのだから、とばかりにもっさりとやればいいわけでもない。
完走だけを目標にする市民マラソンではいかんのだ。
ここであえて繰り返そう。
そもそも笑いは長距離向きではない、と。
だもんで日本では「喜劇」という、ちょいとほろりとさせる手練手管で緩急をつけるのだ。
んで、
んなこた、とっくに知っとるわいと。
知った上でぶち壊したるんじゃいと。
寅さんで止まってるのが、もどかしいんじゃいと。
俺の方がおもろい。
その当たって砕けろ的挑戦が(あくまで好意的にみればだが)この作品の存在価値なのかもしれない。
皆さんが感じた退屈の正体はそんなとこでしょうか。
そんなとこでしょう。
細かいとこに触れるとすれば、
主人公の言葉づかい。
語尾の「なんだよねえ」とか「なんだよ」が気に障って仕方がなかった。
あのカタコトは、設定としてどこ国の人なのだろうか。
それから大日本人になるための儀式。
白装束でお供を引き連れて急ぐ光景が何度かあったが、あれはすり足で(伝統芸能のごとく)急いだ方がより日本的で面白いかと。
肝心な点では、
CGって笑えないよね。
ね。
ねって。
FFとかでもそうなんだが、ある程度のリアルを目指しちゃったCGキャラが身体的ギャグをやることほど寒いことはない。
もはやデフォルメとしての記号ではないのだから、観賞者も容赦はしない。
死体が踊っているようにしか見えないし。
瞳がのろく、
なにより焦点が、ラリってる。
板尾とのシーンは笑いコケタ。
けど、あれも意識の重心を8割がた音声に傾けてこそだろう。
絵が邪魔に思えたほど。
ただし収録の現場の盛り上がりは伝わったよ。
通称「溜まり」での雑談から笑いを思いつき、それを発展させていくといういつもの手法なのだろう。
だからその身うちの盛り上がりは伝わりました。
まったく感謝されない国防のヒーローと、
んなこたどーでもいい大衆。
という視点でテーマっぽいことを語ろうか、だなんて微塵も思いませんでした。
☾☀闇生☆☽
テレビを観ていない。
震災直後のニュースは「ゆーすと」でチェックしていたもので。
恥ずかしながら「ぽぽぽぽーん」を知りませんでした。
ましてやこんなにまで憎悪されているだなんて。
金子みすずの詩も、知りませんでした。
自発的なコンタクトを一切もらえない人の呟きを書いた、あの詩です。
身につまされて、やっぱりテレビを切りました。
かしこ。