アニメ制作会社STUDIO4℃が、新鋭クリエーターたちを監督に招いて描く短編集。
STUDIO4℃の業界向けプロモーションムービーといったところでしょう。
以下、ネタバレで。
オープニングを監督するのが福島敦子。
どこかで聞いた名前だと思ったら『ポポロクロイス物語』のキャラデザさんではあーりませんか。
言わずと知れた名作ゲームであるからして、各担当の尽力とそれらの相乗効果あっての賜物なのは明らかなのだが。やはりあのゲームの最大の魅力といえば、クリーチャーからアイテムから何からの愛らしさ。そこに尽きるわけで。
功績ははかりしれないと。
今作では架空の生き物たちが繰り広げる怒涛のイマジネイションでのっけから圧倒してくれた。
セリフも無く。物語らしい物語もつかめないのだが。
オープニングとして贅沢なつくりである。
あとに続く各話も、おそらくはマニアを唸らせる高度な技術力に支えられているのだろうし、それを故意に見せつけるようなくだりも少なくなかった。
それがゆえなのか。
あるいは短編という時間的な制約からなのか、ドラマとしては、弱いんだわ。
いやそもそもドラマ性を排除している話もあるくらいで。
五話目に『LIMIT CYCLE』という、延々と哲学的なモノローグが繰り広げられる一品がある。
自問自答か。
蒟蒻問答か。
映像はサイバーパンクなイマジネイションにあふれかえるわけだが、言葉と映像の関係性があまりに希薄なために、正直眠い。
高尚な講義のテープを聞きながら、それとはまったく関係なくテレビのチャンネルをハシゴしているような感覚。
いや、語られている言葉が実に頭のよろしげな単語の連続なので、恥ずかしながら闇生のオツムがついていけなかっただけなのであーる。
ぜんっぜん頭にはいんねえ。
また同音異義語が頻出するのも、モノローグ物としてよろしくないのでは。
それをこそ映像で補うべきではなかったのかと。
映像が言葉への注意力を削いでどーすんだと。
いやんなっちゃう。
ならば暗転で字幕だけにした方が伝達の効果は高いはずである。けれどそれでは表現ではなくなるわけで。洗脳ビデオに堕ちるわけで。
まあ、ある種、既存のアニメの概念をどこまでぶち壊せるかという実験大会なのだろうし。
その野心が、強烈に臭ってはいました。
『BABY BLUE』。
ベタな青春観。
リア充の。……という嫉妬がどーしてもこの手の話には付きまとっちゃうな。
この手のなら岩井俊二の『打ち上げ花火』という大傑作があるから、それを越える確信がないならば手を出さない方がいい。
手榴弾を使うまでの必然性のタメが浅い。ニュースにもならんというのは、どうだろか。
全体に、めまぐるしい動きや構図の変化に目を奪われる反動で、なにげない所作に注視してしまった。
『ドアチャイム』の歩き。変だったよ。
あとはなんちゃってティム・バートンみたいのがあったりしたなあ。
唯一『旧世紀 後半』がまっとうに娯楽をやろうとしていたとは思う。
しかしそれも「めっちゃ動いてまっせ」的なシーンが多々あって目ざわりになってしまう。
ギャグもので技術力を見せられちゃうと、萎えるんだわ。
『制約はゼロ』が謳い文句になっているのだが、「絵画の本質は額縁にあり」とチェスタトンが言ったように、自由の本質は制約のあり方にかかっているわけで。
自由ほど不自由なものはないのだ。
ならば、むしろがんじがらめに作家を縛った方が跳んだのではないのかと思ふ。
たとえばセリフは七五調のみだとか。
シェークスピアを原作に、セリフは一語も変更してはならないとか。
セックスしか、描いてはならないとか。
言葉を使ってはならないとか。
『いわゆる』健常者なるものを登場させてはいけないとか。
主人公が死んだところから始めなくてはならないなど。
そういやVHS時代、りんたろう、大友克洋ら当時の才能が結集した四話オムニバス『迷宮物語〜ラビリンス』というのがあった。
あれをやろうとしたのだろうか。
追記。
『夢みるキカイ』だけ見られなかった。
エラーで。
☾☀闇生☆☽
同じ便で届いたレンタルが談志の『らくごのピン』Vol.1。
弟子たちに向かって放ったひと言が冴えている。
「お前ら、勉強しねえと円楽ンとこみてえに真打にしちゃうぞっ」
どうだこええだろ、とな。
さしずめ「仕事おぼえねえと社長にしちゃうぞ」てなところだろうか。