壁の言の葉

unlucky hero your key


  
 まえに使っていたパソコンの処分に困っている。
 修理に出して間もないのに、また不具合になって。
 ともに手を取り合って風雪を凌いだ歳月を考え合わせれば、選手寿命をまっとうしたはいえようか。
 ならばとこれも機会だと、現在のに買い換えたまではよかったのだが、問題はその棄て方だ。
 むろんお行儀のわるいことはしたくない。
 して、お金をだして行政に引き取ってもらうのがノーマルコースなのだろうが、そうやってお払い箱とされた電化製品がいったいどんな老後を過ごしているのか、あたしゃつまびらかでないわけで。
 くわえて、うれしはずかしの、この不肖もんのデータのあれこれはいったいどうなんのかしらと。
 とどのつまりが環境的に、
 して、あたくし的に「だいじょぶかね」と。
 などとつらつらと躊躇ううちにずるずると放置してしまったのだ。
 ましてや昨今、それらはレアメタルの源として注目されているではないのよ。
 なんやかんやと自給率の拙いわが国の、貴重な財産でもあるという。
 んなことを思いつつ侘び住まいの部屋を見渡せば、そんなこんなで棄てそびれてしまった電化製品があちらこちらに目について。
 先に述べたパソコン本体のほかにも、
 ブラウン管式のモニター、
 プリンター、
 結局一度も使わなかったスキャナー、
 ワープロ専用機、
 キーボード用小型アンプ、
 プレステ、
 LD(レーザーディスク)のコンパチブルプレイヤー、といった具合である。
 すこしも威張れたものではないが、こうなってはせめて「である」と上からものをのたまうしかなかった。
 しかなかった、とな。
 実のところモニターはまだ使える。
 んが、今となってはその図体、正直あつくるしく。
 鬱陶しく。
 ばかりかプリンターとスキャナーもまだ死んではおらず。
 それは承知しているのであるが、その型の古さときたらあんまりで、遺憾ながら現行機との互換性を構築できないという次第なのだ。

 
 連中、年寄りは厭だっつんだわ。小生意気に。


 ならばワープロはというと哀愁ただならぬフロッピー式。
 んで、
 なおかつ結末間近で中断した小説が一本入ったまんまである。こちらはプリントアウトの部分が無念のクラッシュとあいなった。
 いつの日かモニターを見ながら手打ちでパソコンへ書写してやろうなどと思いつつ、
 思われつつ、
 そんな近くて遠い恋愛関係が、いつのまにかすれ違いになって。
 より合理的な関係にうつつを抜かしているあいだに自然消滅というよくある流れにあいなった…。


 LDのコンパチはね、ソフトのことを考えると不憫でならんのだわ。
 たとえば、矢野顕子の『S席コンサート』。
 ギル・ゴールドステイン、
 ミノ・シネル、
 トニーニョ・オータという少数精鋭の結束を垣間見た素晴らしい演奏。
 互いへのリスペクトに満ち溢れているのが、それはもう見ていて嬉しくなるばかりで。
 蜜月という名のお月見に居合わせる感動が、ある。
 中でも、高野寛のカヴァー「夜の海を走って月を見た」は至宝だよ。ほんと。
 どうしてこれ、DVD化しないのか。不思議でならないくらい。
 それから、勝新太郎の遺作『座頭市』。
 DVD化されてはいるが、これなんかサイン入りだもの。
 しかも宛名まで書いてもらって、だ。
 正直、有名人のサインそれ自体には興味を持てないタチなのだが、貴重でござんしょ、こればかしは。


 そんな思い出溢れる我がコンパチが永久の眠りについているのに気づいたのは、つい先日のこと。
 久方ぶりにセロニアス・モンクのドキュメントフィルム『ストレート・ノー・チェイサー』を愉しもうとしてのことだった。
 敬愛なる高僧(モンク)にご無沙汰ぶっこいちまったもんで。
 思えば、長尺ものは途中でディスクを裏返さなくてはならん、という時代の産物で。
 まったくなんという時代か。
 あっちうまだよ。あっちうま。
 しかしそれもこの際だ、
 そう考えてネットで調べると、引き取った電化製品を有効に再利用してくれているところがあるという。
 レアメタルを取り出して活かしたり、
 あるいは修理したのちに再利用として老人ホームや外国へ寄付したりするとある。
 よさそうじゃないですか。
 いいでしょう。いいでしょう。
 本来、政府が率先してやるべきことでしょうが、ねえ。
 もう少し調べて、信用できそうなら引き取ってもらうことにしやしょうか。
 とまあ、ひとまずはそう結論づけたのだ。


 その明け方だ。
 こともあろうに。
 いつものように普通ゴミを捨てに行くと、うちのアパート用のゲージの前にいたオバサンが、こちらに気づいてそそくさと自転車で去るではないの。
 ホームレスが空き缶の収集に巡回しているのはよく見かけるが、はたして。
 去り際にばしゃばしゃと水の音が立ったので、近づいてその小川を見てみると、なにやらごつい鉄くずが捨てられている。


 あのばばあ。


 ゴミへの責任感を抱かせようと、マンションごとにゴミの収集ゲージを分けたはいい。
 んが、
 その功罪の負の面として「押しつけ」というのが起こって。
 投棄代をケチったどこかのだれかが、不法投棄をしていく。
 たとえば壊れた扇風機を。
 するとこりゃたまらんと、押しつけられた住人は他の住人のゲージに押しつけるのだな。
 するとまたそれをほかの住人のゲージへと…。
 ゴミの出し方の問題点としてよく、地元の人間vsマンション住民という構図が指摘される。
 一戸建ての地元の方々は、その地域に定住であるからして、ゴミを含めた近隣の環境に敏感であり。
 たいするマンションやアパートの賃貸族は、しょせんはよそものであるから、それらに疎いと。
 それも一理あるのだろうが、あたしゃその逆のパターンばかり目撃してしまうのだな。
 この扇風機の場合だと、結局、アパート住人のゲージの前に押しつけられてしまった。
 面倒はよそ者へと。
 近所のおっさんがステテコ姿でそれをやるのを、あたしゃ現に見ている。
 違うおっさんがどぶ板の隙間にビニールにくるんだ犬のフンを押し込んでいるのも、つい先日見てしまったし。
 こちらと目があっても、しれえっとしてんだもの。
 なんだろか。
 小さいころからゴミの分別があたりまえな環境で育った若い世代よりも、年寄りたちは歳をとってから突然にルールの変更を余儀なくされたものだから、それについていけなくなっているのだろうか。
 そのふてぶてしい振る舞いを前に、たかがパソコンのやり場にあれこれ悩んでんのがアホらしくなるわと。
 ましてやこのたびのばばあは、川へ鉄くずだもの。
 わけわからん。
 

 ついでに言えば、
 かつての勤務先は店先が、その地域のゴミ収集所であった。
 住人でもなんでもない通行人が通りすがりにそこへゴミを投棄していくのを、毎時間のように目撃した。
 誇張ではない。毎時間だ。
 きちんと捨ててくれりゃまだありがたいのだが、カラス除けのネットの上に積み上げていくのね。連中ったら。
 面倒くさいから。
 それをカラスがほじくってさ。
 ばらまいてさ。
 ネズミが居ついて丸々と肥ってさ。
 群がる猫を威圧してさ。
 酔っ払いなどは、まだくすぶっている煙草をそこへ投げ捨てて行くし。
 小さなボヤなんか、しょっちゅうだった。
 そういえば、そこでもオバサンは、どこか遠くから自転車で遠征してくるのが多かったな。
 生ゴミなんかをぽいっと投げていくんだ。
 閉じて乾いた表情でさ。
 そこへいくとオッサンはふてぶてしくて。
 おそらくは近場の住人だろう。
 で、それをぶつぶつ怒りながら掃除する、近所のおじさんとか。
 それを手伝うご近所さんとか。
 叱られてもしれえっとして捨て逃げする若いのとか。
 すでに正気を失ったバカボンド(ダンボールハウスすら持とうとせず、見えないご友人をたくさん持っていらっしゃる)が、直でそのゴミを食って散らかすので、掃除おじさんが説教してたり。
 もはや言語は通じないのに、懸命に掃き掃除をおしえてたり。


 たぶんカメラを設置して定点観測すれば、おもしろいドキュメントにはなるんじゃないかな。
 単なる説教くさい、たとえば公共広告機構のようなフィルムになってはつまらんが。
 ゴミなんてものは、言ってみりゃ人間の欲望の、しぼりかすだもの。
 業の抜け殻。
 うんこ。
 だものそこに本性が出ます。
 気をつけねば。







 ☾☀闇生☆☽


 ねば。