コロナ騒動によって瀕死となった文化芸術エンタメを税金で守れという声があって。
いつからそんなにひ弱になったのか、と思ふのだ。芸術のヤツめ。
なっさけない。
あえて言うけれど、この程度で消滅するようなものなのか? 芸術て。 文化て。
むろん個々の劇団や、俳優や、音楽家や、劇場経営者やプロダクション、それからいわゆる裏方と言われる人たちの困窮はあるだろう。
やむをえず転職をするはめになる人も続出するだろう。
解散や廃業、破産、倒産もある。
けれどその試練は他業種・他分野とて同じこと。
たとえば音楽界でいえば、コンピューターの登場による打ち込み全盛期に、大量のミュージシャンや録音エンジニアやスタジオがなくなったことは記憶に新しく。
徒弟制で受け継がれてきた技術が、そこで途絶えたともいわれている。
映画界だってトーキーの登場に対し、サイレント映画につきものの活弁士たちが組合までつくって反対運動を繰り広げたが、結局は職を失った。
サイレント映画という文化も、もはや文化遺産とみなされて、新作が制作されることなどなくなってしまった。
黒澤明の兄は活弁士の組合の代表だったひとで、その騒ぎの挙句に自殺に追い込まれてもいる。
その後、黒澤は映画監督となり、いわずもがなトーキー~カラー、晩年にはCGまで取り入れて傑作を撮り続けたのは周知のとおり。
先の戦争でも、多くの文化が瀕死の状態となったことだったろう。
離散した劇団も少なくなかっただろうし、音楽家だって職替えをするほか生きる術をなくしてしまった人が多かったはずだ。
それでも音楽は死なないし。
芝居もある。
映画も作り続けられている。
安吾の堕落論になぞらえていえば、この程度で消滅してしまうようなものは、消えてしまえばいい。
この程度でなくなるのならば所詮はその程度のものだったということだ。
文化遺産としての保護を求めるのならば、すればいい。ただしその場合は活きた文化として存続することは諦めるべきだろう。
博物館のガラスケースのなかにでもおさめてしまえばいい。
しかしね、
人々が大変なときにこそ、それらは必要とされたのではなかったの?
助けを求める人々を、
疲れた人を、
楽しいことを求める人たちを
勇気づけたり、
慰めたり、
時には見る側をも風刺したり、
今までにない新しい視点を提示したり、
笑わせたり、
泣かせたり、
いっときの現実逃避を促したり、
そっと寄りそったり、
重い尻を蹴り上げたりしてきたのではなかったの?
それが今「助けてくれ」と救いを求める側になっちゃった。
助ける側ではなくなってしまった。
どーゆーことよ。
いわゆる戦後の焼け野原からの再出発よろしく「紙芝居屋からやり直せ」などとは思はぬ。
ギター一本肩にかけて飲み屋をハシゴする流しから始めろとも言わぬ。
でも、それくらいの心意気はもっていてくれよ、と思ふ。てか願ふ。せつに。
スマホだってPCだって、現代なら表現を拡散する道具はいろいろあるだろうに。
頼むから、しぶとくいてくれよ。
※追記。
この苦難はチャンスで、カンフル剤になると思っていたのだけれど……。
こうなる模様。
↓
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まあ、
保護されるのならば王のお抱え道化師、つまりが『乱』の狂阿弥としてやればよいということか。
うううううむ。
ひとつのピリオドとなって新たにおもしろいものが生まれてくると期待していたのに。
闇生