ミシェル・アザナヴィシウス監督・脚本・編集『アーティスト』DVDにて
サイレント(無声)映画のスター俳優ジョージと、女優の卵ペピーの恋を描く。
二人は慕い合うなか、時代はいつしかトーキー(音付き映画)へと移り変わり、ペピーはそのトーキー女優の注目株として着々と成功をつかんでゆく。
しかしその一方で、ジョージはあくまでサイレントに固執し、時代からとりのこされてしまうことに。
以下ネタバレ。
サイレント映画の全盛期を、サイレント仕立てで撮るという狙いが実に効いている。
それは誰もが驚いたであろう、自分以外が音を持ち始めていることにジョージが気付く、あの鏡の前のシーンである。
自分だけ音が無い。
グラスやソファまでもが音を立てるのに、自分だけが無音という恐怖。
この、時代に取り残される感触を寂しさでなく、恐怖として、それもセリフではなく映画的に描いてみせたところが光っていた。
この時代を表す日本でのエピソードをひとつ。
黒澤明の兄は、無声映画の弁士をしていた。
いわずもがな、セリフの無いサイレント映画の状況説明をスクリーンの横で弁ずるのがその仕事であった。
彼らにとってトーキーの席巻は、職を奪う忌々しき問題なのである。
時代にさからったところでどうなるものでもないのであるが、サイレントが滅びゆく中で弁士たちはトーキーへの反対運動を起こした。
黒澤の兄は弁士の協会をとりまとめる役を任されていたそうで、弁士たちの実情と、時代の現状との板挟みとなり、ついに自決する。
彼自身はトーキーを肯定していたという。
チャップリンが長い間トーキーで映画を撮ることを拒んでいたことは有名な話である。
それまでに積み上げてきた技術なり実績を、一旦ご破算にしなくてはならないのが、こういった時代の変化なのではあるまいか。
いや、
実際は当人の応用力次第で、過去の実績というものはいくらでも再利用が効くのに違いない。
しかし実績の多い人ほど、それが時間の積み重ねと共にアイデンティティの要になっているわけであるから、実績はプライドと同化してしまうのだ。
時代への迎合、という言葉があるように、順能力を殺すのはこの凝り固まったプライドなのである。
劇中でペピーはジョージに「プライドを捨てて」と哀願する。
んが、それは若さゆえに言えることだろう。
つまり実績に時間が費やされていないからこそ言えるのだ。
どんなに必要性に迫られても20年住み慣れた家と、2日泊まっただけの家とでは、転居への決意のほどが違うように。
人によっては終の棲家と心に決めて、テコでも動かない。
そんな感じではないのか。
結末で、ジョージは音に祝福される。
それは音楽の音だけではなく、ダンスのあとの呼吸の乱れ、衣擦れ、スタッフの喧騒など、ナマな現実音からの歓迎であり、とどのつまり現実への回帰をあらわしている。
Dream is over.
銀幕の、ではない、地に足のついた等身大の恋を、ふたりは育むことでしょう。
久々のジョン・グッドマン。
歳を重ねて、少ししぼんで脂っけがおさえられた感じ。
サイレントらしく、もっとアクが強くても良かったかも。
☾☀闇生☆☽