勇気ありますなー。このお方。
政府が直接的に関与することができるのは経済までだ、と。
なるほどそのとおりで。
現代日本政府を、この記事にならって『さや侍』と見なしてみる。
刀身のないさやだけを腰にした侍。
むろん同名の映画の作り手にそんな意図はなかっただろうと思われるが。
知ってのように日本政府は、罰則や強制力のない『自粛要請』までしかできないのが現状ですな。
お願いまでだ。
それでいて大衆からは「従ったのだから補償しろ」という突き上げをくらう。そこにこの国特有の妙なねじれがある。
いまの日本政府をよく『独裁』とたとえる人がいますが、
比喩を使いまわしているうちにその比喩にみずから暗示をかけられている人が、いる。
本当の独裁を経験した国の人たちに失礼だと思ふ。
国際的には笑われるよ。
独裁なめんな、と。
昭和の最初の二十年間を憎悪する司馬遼太郎ですら、こう言っている。
せめてヒトラーくらいの本当の独裁者が日本にあったならば、戦後、一切をその一人の責任に押しつけることができたのに、と。
そこいくと今の政府は『さや侍』だ。
平時はそれでどうにかなるが、有事となれば何もできない。
お願いしかできない。
お願いしかできない独裁者て、なんですか。
たしかに妙な言葉だ。『自粛要請』。
自粛というやつは要請されてするものではないだろう*1。
『自ら』でなくては意味をなさないのだから。
なんかその辺りあたしの職業、警備員と似ている。
警備業法でゆるしているのは、お願いまでだ。
たとえば往来での現場ならば、あたしらにゆるされるのは交通『誘導』までであり、権力による警察の交通『整理』とは厳密に区別される。
信号が赤なら警備員にできるのは「止まってください」というお願いまでで。決して『進め』をしてはならないし、そもそもできない。
信号の方が権力を持つからだ。
この信号よりも権力が上なのが警察で、たとえ信号が赤であっても、彼らは通行車両を「進め」と通過させることができる*2。
相手の協力があってはじめて『誘導(おねがい)』は成立する。
仮に警備員が強制したら問題だ。
にもかかわらず人は、違法駐車の車両をちゃんと注意しろよ、だなんてクレームするし。
反論もリアクションも法律的にできないのを知ったうえでデモでガードマンを挑発したりする。
反論も反撃もできない相手にかみつくの、あれほんと、ダサいですよ。
世のクレームの大概がそうだろう。
飛沫感染と空気感染をごっちゃに取り扱ったまま、恐怖ばかりあおりたてられているのが現状で。
ここまでヒステリー現象になってしまうと、たとえば商店の再起などはますます困難になっていく。
店主がどんだけ予防策を考え、調べ、対策し、万全ををつくしたところで客の恐怖心が邪魔をするのだ。
結果、めぐりめぐって大衆が自縄自縛になるのではと危惧してしまう。
またコロナ終息後に「安全です。外食しましょう!」だなんて政府広報にやらせるの?
これもまた大衆の顔色をうかがった「おねがい」だ。
ところで、
あたしの住む近所にはラーメン屋が何軒かある。
黒Tシャツ、黒前掛け、黒タオル鉢巻き、茶髪でピアスの、よくあるタイプのが。
先日、昼頃に買い出しに出たところ、外から見た限り、店内のカウンターはコロナ騒動前ほどの活況はない。
かつては飯時といえば空席が無かった。
今回は空席がまばらに見られたが、かといって、隣席の人と肘をふれあうようにして食べる状況は変わらない。
他の飲食のように営業スタイルをテイクアウト・オンリーに変換できる性質のものではないから、お持ち帰りにするのも難しいのだろう。
ならばせめて、席をひとつおきに開けて座らせるとか。
いまの中国のように、隣席の人とのあいだに衝立を設けるとかの工夫はほしいな、思った。
売り上げに響くのだろうけれど、隣の人と肩が触れそうなあの状況をガラス越しに見てしまっては、食べたい客も遠慮するだろうに。
くっつくほど隣と接近して、
汗かいて、
むろんマスクを外さなければならないし、
熱いスープはふうふう吹いて、
麺をズルズルッとすするときには、飛沫が散るわけで。
そのうち鼻水がでてきて、それをかんだりするのだろう。
かんだそのティシューは店内のゴミ箱に捨てるのだろう。
そのゴミを黒ティーはまとめたりするのだろう。
市井がそんな風だから、緊急事態宣言解除をためらうのだ。専門家ですらも。
解除したとたんに北海道の二の舞となったとしたら、
それで糾弾されるのは、またしても政府だしそのブレーンとなった専門家である。
さらに話がそれるようだが。
日本人は家にあがるときに靴を脱ぐ。
その慣習というか文化というか、
罰則や法律で取り締まらなくても自然に守られるまで浸透した『様式(スタイル)』に、今回の感染拡大の爆発が抑制されているのではないか、という声をどこかで聞いた。
この意見の科学的根拠はいまのところあやしい。
んが、
『わずかならでも』効果があったのではないかという信憑性は感じる*3。
一方中国では、今回の感染拡大を教訓に、食卓では取り分け用の箸をつかうようにしようという運動が始まっている。
それまでは自分の箸で取り分けていたそうで。つまり直箸。それが親密さ、信頼の証でもあったそうな。
箸を替えるのは、失礼に当たっていた。
それもまた文化だ。
ちなみに直箸のことを日本ではむかし『土足』と呼んでいたことは古典落語のなかに知ることができる。
これを機に中国で取り箸が浸透するとするならば、また生活スタイル(様式)が変化する。
外から帰ったら手洗い、うがいという習慣は、いったいいつからだろう。
戦後かな。
虱アタマのガキんちょあたりからだろうか。
そういう貼り紙は小学校の手洗い場などでよく見かけた。
石鹸をミカンの赤いネットに入れて蛇口にぶら下げているのは、当たり前の光景だった*4。
帰宅するなりテーブルの上のお菓子などに手を伸ばすと、
「手、洗った?」
と母親が厳しくするどく問いただす光景もまた、当たり前になっていると思う。
いまはどうだろう。
わらじや下駄を履いていた時代には、外から帰ると、桶に水を汲んで足を洗った*5。
これは実際に土で汚れるからだろうけれど。
そこまでして、室内と屋外を分けて認識していた。
土足で歩く土間や三和土(たたき)と、それを脱いであがる板敷や畳の部屋との間に、目に見えぬ結界を感じていたのだと思う。
外から帰るたびに足を洗うだなんて、面倒だ。考えてみれば。
近現代でもあがりかまちにはマットを敷く。
靴を脱いだその足を、床につける前にまずマットを経由させる。
汗を吸い取らせるとか、実際的な効果もあるのだろうけれど。
そこまでするならば土足で出入りできるように家のつくりを変えてしまえ、とはしなかったのだな。あたしらは。
さて、午前四時だ。
そろそろ寝よう。
今晩は例の階下の生保の飲んだくれによる床どんはなかった。
これはやはり飲酒したときに限定してやらかしているのではないか、と推測す。
よし。
町内をぐるりと散歩して、
それからちょいとお酒をいただいて、
どん兵衛食って寝る。
今日はニヒル牛に問い合わせておいた通販のお目当て作家の商品リストが、メールされてくるのだ。
ありがたし。
『旅本展』も、まえから贔屓にしている常連作家たちの新作は、無条件に注文することに決めた。
山中奈緒子。
わたなべともこ。
平田真紀。
石川ある。
それにくわえて最近出品されていないココマコムーンも熱望したが、今回も出品はないという。
あたしにとっての旅本五人衆。
はやく来い来い。
あたしゃ通販でいくからね。
わくわく。
わくわく。
お。すっかり朝だ。
おやすみー。
※追記。
スタイル=様式。
この『様式(スタイル)』っておもしろいよね。
とかく様式美、的な使われ方をするけれど、
PCの時代になってからは特に『様式』というのは、互換性になくてはならないものになった。
互いの様式を知る、ことがつながりを生む。
これ相互理解の要のように思える。
それでいて様式は無駄や非合理や非効率のたまものだ。
有体にいえばそれが文化というやつで。
先述の司馬遼太郎にならえば、
襖や障子は足でひょいと蹴って開ければ合理的なのに、わざわざその手前で膝をつき、両手をそえて少し開くことで室内の人に新たな入室があることを知らせ、間をおいて戸を開き、にじるように入室し、身体ごとふり返って戸を閉める、という一連の『無駄』こそが文化だ、というのである。様式ですな。
科学的根拠とかいうものを後ろ盾にせずとも残るものを指すのだろう。
だいたいこうやってつらつら綴っている言葉こそが様式のたまものなのだもの。
そこいくと文明は、センサーで感知して勝手に開閉するものをつくるところにある。
コロナ後を語ると鬼に笑われるに違いないが、手洗いとうがいとマスクというスタイルは、世界的に定着するのだろうか。
しないのだろうか。
科学的に安全とわかるやいなや、『無駄』と見なしてぽいと捨てられるものなのだろうか。
闇生