意見するなとは思わない。
むろん民主主義が絶対の正義の制度だとも思わないが。
批判、批評は大いに結構。
ただ思うのだ。
野次るな、と。
現場でもいる。
せっかく言っているその主旨や意味するところが正しかったり、
あるいは興味深い視点であったりするのに、
惜しい。
くそが、とか。
あほじゃねえの、とか。
死ねよ、とか。
このポンコツが、とか。
おめえら、とか。
バカかおまえは、とか。
せっかくの自前の料理をきったねえ皿やパッケージで汚してしまうようなことをする人がいる。
もったいないって。
そんな料理( 意見 )の出し方で、相手がのむと思うのかね。
せっかく作った貴重な料理を、差し出す最後の最後にきったねえ手づかみにして突き付けて。
その時点で、言った自分を貶めていやしないか。
バカと言う奴こそバカだ。
だれだっけ。
議論はすべておねえ言葉でしたら円滑になる、と言ったのは。
『 いわゆる 』おねえがすべて平和主義で、議論巧者であるとは思わないが、
要は、言葉を使う者として、人に対する者として伝え方、渡し方をわきまえていこうよと。
その方が、きっと胸にささる。
批判もまたげっぷや屁のようにひりっぱなしにするのではなく、言われる相手がどうそれをキャッチするか。
しやすいか、を想像しながら構成する工夫は必要である。
批判にもマナーがある。
それでこそ届くし、吸収される。
ただただ衝撃をあたえる、もしくは言葉で強く殴ることのみを狙いとしてやりあってても、埒あかない。
そりゃあ殴れるでしょう。
凹ませることもできるでしょう。
が、それでなにが解決するのだろう。
せいぜい殴った爽快感は得られるでしょう。けれど、それが何?
怨恨がらみにこじらせたり、もしくは北風と太陽の北風よろしくかえって相手を頑なにさせてしまっていないか?
それは論じるべき論点から大きく外れてしまう行為。
それでいいの?
つまりは逆効果ではないのかと言いたい。
うまい料理にひそませてこそ、盛られた毒はよく効く。
批判もまた相手の胸にすとんとおさまるように、ひと手間かけようぞ。
な。
闇生