『閉じている自分と付き合えているやつが好きだ』
もったいなくもいただいちまったコメントの、なんと風情のよいことでしょう。
お言葉が、ピンと胸張っておられます。
だもんで読み返しては、ひとり赤面するのだ。あたしなんかは。
落語とは業の肯定である。
そうのたまった立川談志は、
また別の所でそれをこんな言い方で表現してもいて。
吉良邸に討ち入って、みごと主君の仇を討った四十七志はエライと。
けど落語が描くのは、その勇敢な47人以外の赤穂藩の面々で。
つまりが逃げちゃった奴らの方だ。
太く短く生を終えることから逃げて、肩身も狭く、細く長く生き延びちゃった連中。
こいつらの、このどうしようもない『ちゃった』の臆病を、肯定してやるのが落語であると。
言い回しは、闇生風に変換してます。
この『肯定』の意味合いに、おそらくは談志の境地があるはず。
決して熱烈な支持という意味合いではなく、
ましてや高じて運動化するのでもなく、といった極意がね。彼の噺を聞けばわかるとおりに。
してそのバランス感覚は、業というある種の『閉じ』といかに『付き合えている』かに、かかわってくるのではないでしょーか。
それはもう、なんつーか、達人の域である。
域としよう。
してしまおう。
とかなんとか、今日もまたえらそーに…。
ともかく、
他者に好きだと言い切る風情ほど、風通しのいいものはありません。
☾☀闇生☆☽
余談で。
批判も、否定も、
相手の存在を肯定したうえでこそ、です。
これ、案外と失念しがちで。
無視とは、まるで次元が違う。