右を見ても左を見てもおっさん批判であふれかえってますな。
そこいらじゅうおっさん批判だ。
追い立てられるようにおっさんのおっさんによる自虐も尽きないので、当面のところおっさんへの批判が枯渇する心配はなく、潤沢にまかなわれていく模様。
ならばこれを次なる資源エネルギーにできやしないかと、思ふ。
思わないが。
批判することによっておっさんはより強固に客体化され、それぞれの概念にしっかと根を張っていくわけで。
批判精神を喚起するわけで。
革命への起爆剤として貯蔵されていくわけで。
しかし根は張りめぐらされるが、花にも実にもならないところが、なるほどおっさんらしいではありませんか。
しかしまあ、これは需要の低いオスの中高年だからこそ、おっさん呼ばわりされるわけで。
たとえばイチローや三浦カズや村上春樹などは、分類上おっさんではあるだろうけれども、いわゆる日常的な社会悪とみなされる「おっさん」ではないのではないかと。せいぜい彼らは「おじさん」だろうし。それ以前にイチローでありカズでありハルキだろう。
で、対の概念であるところの「おばさん」は、この「おじさん」の対であって、「おっさん」の対ではないような感触がある。
おっさんの方が、おばさんより階級が下ではないのか。
ニッセイのおばさんやヤクルトのおばさんの「おばさん」呼びはよろしくないとして公共の電波から駆逐されて久しい。
んが、「おっさん」はむろんのこと「おじさん」はしぶといぞ。
まだまだ蔓延るぞ。
むかし流行った「魚屋のおっさんが屁をこいた♪」は、いまどうなんだ。
どうなんだと言われても、なんだろうが。
子供におつかいを教えるとき、親は店員を「おじさん」「おばさん」としては教えるが「おっさん」とは教えない。
本来、自分の子供の前で使えないような言葉なのである。「おっさん」は。
Fワードと同等で。
スラングで。
社会悪で。
ヒップホップだ。
断捨離の標的だ。
そんなこんなで、頂きもののシーバス・リーガルがつきた。
で、飽きた。
おっさん、寝ます。
☾☀闇生★☽