自転車を修理に出して、一週間。
どうやら部品の調達に時間がかかっているらしい。
自然、その間は電車通勤が増えるわけで。
いい歳こいてDSばっかやってる次第。
といってもそれはヒマつぶしには違いなく、
戦いの合い間合い間に車内吊りなどに目を遊ばせたりしてヒマつぶしに励んでいる。
そこで世間というものを知る。
とりわけ最近目立つのが、幼稚園の入園案内。
園児たちが描いたらしいクレヨン画を背景に、その告知をしているのだが。
気になったのはその園児らしき拙い筆跡で散りばめられた言葉である。
曰く、
「ゆめ」
「きぼう」
「あした」
それらを同じようにクレヨンのハートで囲ってある。
けれど、このハートだけはあまりにうまく描けているので大人の手によるものだとわかる。
んで、
頭をかしげちゃうのだな。あたしなんかは。
はたしてあの頃、夢だの希望だの明日だなんて概念はあっただろうか。
断言するが、無かった。
今の子供にも無いだろう。
夢も希望もない、と言えばネガティヴな印象があるだろうけれど、本当の幸福の真っただ中とはそういうものだろう。
それつまり対の概念としての失望も未練も、思いだにしないということだ。
子供の時間というものの幸福は、そこにあるはず。
一日というものが永遠のように感じられたあの時間感覚。
5歳の子の全人生のなかの今日一日の時間感覚は、1/1825である。
途方も無い。
40歳のおっさんの今日ならば、1/14,600である。
あっといまだ。
どうしようどうしようと明日を考えるほかない。
いや考える時間もない。
DSについ逃避してしまう。
仮にもしその概念が五歳に芽生えていたとしても、それは大人がアニメや漫画で執拗に植え付けた結果ではないのか。
そしてそれを引きずって、みな大人になると。
植え付けられた希望がやがて失望や、あるいは絶望のはじまりになったりするわけで。
それでもやりくりしなきゃしゃーないと、失望や絶望を希望の始まりにしたりする。
思い出したが、
保育園の卒業文集のようなものに絵を描かされた。
将来なりたい職業というテーマで。
まるで頭に浮かばなかった。
先生に促されて、好きなものを捻りだして描いた。
新幹線ひかり号。
あの形と速い、というところが好きだっただけである。
けれど、それを無理に「なりたい職業」化しなければならず。
その運転手、ということにした。
車内吊りの文字が、そういう過程を経たものではありませんやうに。
子供の希望は、
えてして大人事情、予定調和に使用される。
☾☀闇生☆☽
追記。
子供の時間感覚。
であるからして、ママさん、パパさん。
そういう時間のなかで接していると時々思い出していただきたいなと。
このひとりもんは思ふ。
さらに追記。
にしても「あした」というのには吹いた。