女装者に出くわす、の巻。
今月に入ってなんと二件目である。
女装者との接近遭遇。
つい先だっては勤務中の現場であった。
片側一車線の幹線道路の舗装工事。
反対車線の歩道を、それはそれは異様に短いスカートの人が来るのだな。
うん。
週末の規制開始から間もない時刻であった。
22時くらいだったか。
えらく細くて長いその脚に、周囲は目をうばわれたわけで。
派手なおねえちゃんかと思いきや、接近するにつれてどうやら違うらしいことがわかってくる。
広い肩幅と、くびれから太ももへ、なんのひっかかりもなく落ちていく腰まわりのライン。そこにオスを見出してしまった次第。
女のケツというものは、デカかろうが小さかろうが骨盤のぶん横に張りだしているものであり。
そいつがいわゆる『ぼん、きゅっ、ばん』の「ばん」の礎になっている。
ところがその人はといえば「ばん、きゅっ、すとん」。
肩幅はひろく、そして縦長のおケツをしていたのであーる。
規制帯の対面の歩道で立ち止まり、もじもじとこちらをうかがっていた。
ちょうどあたしの真ん前だ。
だので横断したいのかと。施工個所に面する住人さんかと。ならば、なにはともあれ誘導しなくてはならない。
んが、声をかける間もなく、彼は車両の切れ目をみはからって横断し、規制帯に進入し、切削機の前を横切って、通行止めをかけていたせまい脇道へと去っていった。
急ぐでもなく、不思議な歩調で。
あたしの担当ポジションからだけ、彼の去っていった脇道の様子が見えている。
おそらくは現場の連中が自分を注視しているであろうと期待したのだろう。往時のダブル浅野を思わせるような、背中への視線を過剰に意識したドラマオープニング風の歩き方で遠ざかっていくではないか。
で、丁字路で立ち止まり、背を向けたままなにかポーズを決めていたようだが、あたしの視力ではちょっち見えにくい。
その数日前におなじ彼に遭遇した同僚によれば、そのときはぺろんとスカートをおめくりになって前の『具』をおさらしになられたとのことであるからして、ひょっとしたらこのケツ喰らえとばかりにあたしに文字通りケツをまくった可能性が濃厚となった。
うん。
で、今朝だ。
6時まえ。
この時期の6時前であるからして、もう完全に朝。
魑魅魍魎のちの字もない。真っ白けのけ。
紫外線痛い痛いである。
ウォーキングの復路。
片側二車線の幹線道路の歩道を行くと、対面の歩道にこれまたえらく短いスカートの女が立っている。
そのあたりでは見かけないステロタイプな女子高の制服で、しかもルーズソックスである。
バス停でもない板金屋の前で、ただ立ってきょろきょろしている。
タクシーを捕まえたいのなら、もっと車道側に立つだろう。
位置的にも不自然に、立っている。
距離はといえば、上下四車線と両サイドに設けられた広めの路側帯を挟んだ向こう側でのこと。
しかもめぼしい比較対象物が周囲になかったせいでか、身体のサイズには特別な違和感はなかった。そばにショートピースでも置けば明確だったのだろうが。最近の女子高生って背えたかいのいるよねえ的な。ごついのもいるよねえ的な、そんな許し方をしてやりたいと思った。
そういう優しさは持ち合わせているつもりだ。
にもかかわらず、やはり不自然だったのね。どことなく挙動が。
正直に言えば、いい脚はしてる。
うん。
してた。
ライン的には、女にもいないことはないと。
バレー部とかバスケ部にならいそうな。
けど両者ともに共通する不自然さがあるのだな。
その理由はいったいなんだろうと首をかしげちゃった闇生ちゃんなのであった。
ひとつは自意識が深く関係していると思う。
ああまで街中で自意識を盛らせているのも、そうはいない。
むろん思春期のそれとも違うし。
また有名人や、目を引くようなモデルさん丸出しの人が「みてんじゃねえよ」と人目を気にするあの閉じようとする自意識とも違う。
んで、
その他一般の歩行者となれば、そもそも目的もなく公道にいることもないわけで。
ただ歩くにしても、あたしたちゃ目的地があって歩いているものだ。
通勤にしても、買い物にしても。
あるいは歩くことそのものを目的としたウォーキングにしても、目的地なりそのタイムなりの目標がある。
たとえ散歩であっても、そうだろう。
風景を楽しみながらとかね。
気晴らしなら、気晴らしという効果を求めてのことで、自意識はむしろ盛らせない方向で処理しようとする。
あてもなくぶらぶらするなら、ぽかんとするものである。
自意識の対岸、心ここにあらずというやつだ。
あるいはその間、スマホなり本で退屈を紛らわせてはいても、目的地あってのことだし、スマホなり本もまた目的になっている。
そこゆくと露出系の女装者の歩行は、その点が違っていて。
周囲のほとんどが目標あって行動するなかにあってただひとり、あたしってば見られてるんじゃないかしら、という期待であたまのなかをぱんぱんにして徘徊するものだから、歩き方があきらかに違う。
主眼は身をさらすことで満たされようとする自身の欲望であって、地理的な移動や到達にはない。
女装云々以前に、その点で浮いているのだ。
かつて黒澤明は云った。
俳優の能力は、カメラに背を向けて歩かせてみればわかると。
「ふつうに歩け」
とだけ指示して、カメラに背を向けて普通に歩けたら大したもんだと。
最初からそんなことができる人は、まずいないだろうと。
たいがいが、普段どうやって歩いていたかわからなくなってくるらしい。
「普通に」歩くことができない。
北野武も云った。
「ただ歩いてくれ」
という演出を俳優はいやがると。
髪をいじったり、ポケットに手をつっこんだり、タバコをくわえたがったり、とにかく何か手に持たせてくれと俳優たちはいうらしい。
普段、どう手を動かしていたかわからなくなってくるらしく。
とてものこと、ただ歩く、ということができない。
なにかしたがる。
両者とも自意識のやり場にこまってのことだと思う。
ただ普通に歩くなんて、普段しないからね。
たしか映画監督のベルトルッチだったか、その話を聞いた坂本龍一だったかが云った。
観客は俳優の自意識を嫌う、と。
ほうらカッコいいだろ、とか。
きれいでしょ、とか。
おもしろいだろ、とか。
そういう『我』は、観客と映画のあいだに立ちはだかる障害物にしかならないのである。
ただしアイドルやタレントの起用を売りにした映画は、別になるのかもしれないけれど。
だもんで、その知名度の効力が作用しない海外にそれらアイドル映画を持って行った場合は、痛いことになると。
下世話な話をすればAVこそがそうでね。
それがプロ意識であると錯覚された被写体の自意識ね。
じゃまっけです。
最近なら、おもしろ動画的なやつ。
投稿者が笑わせようとするほど、視聴者はさめていく。
心霊映像とかの演出もそうだよね。
ほうら怖いだろ。驚いたろ、の寒さったらない。
もっとうまく騙せよ。
とりわけあたしら警備員は、現場に接近してくる第三者がどうしたいのかを予測することでやりくりしているわけで。
そういう観点で見ていると、目についちゃうんですよ。
目的があって移動しているひとは、その目標に気を取られるぶん自意識も軽くなっている。
時間に追われれば、なおのことである。
けどまあ、やっかいなもんです。
自意識というやつ。
彼らをみて、現場のだれかが「掘られちゃう」とふざけたが、それもまた過剰な自意識であってね。
あの人たちにも当然、選ぶ権利はあるだろうし。
面食いだったりもする。
それ以前に外見からあえてベタな解釈をすればだ、掘る側ではなくウケる側である可能性の方が確率的には高いだろうから、認識もズレている。
また、異性装だからといって同性を性愛の対象におくとも限らないわけであり。
ようするにゲイではない異性装愛好者とかね。
ましてや恋愛ともなればそれとは別腹にするひとだって、いる。
自意識に遊ばれてふりまわされているのはむしろ彼らを嗤う方かもしれない。
彼らこそ自意識を手懐けたり暴走させたりして遊んでいるのかもしれないのよねえ。
こんど出くわしたらあれだな、ちょっとお話でも聞いておこっかな。
☾☀闇生★☽