久しぶりの歩行者誘導。
歩道舗装工事にともなう歩行者通路の切り回し。
切り回しとは車道に通路を仮設すること。
その仮設通路へと歩行者をご案内することで、施行箇所を安全に迂回していただくと。
歩道との段差の処理はコンパネ(ベニヤ板)を架けてスロープを作るスタイル。
そこを通っていただくのだけれど、このコンパネの厚さがいやらしいのですよ。
わずか2cmほど。
たかだかそれっぽっちだ。
そのぽっちが人を油断させるわけで。
スマホ歩きがつまずく。
酔客がつまずく。
注意喚起でお声かけはしていてもつまずく。
ましてやイヤホンをしている人も少なくない。
なので大きなゼスチャーで案内することが注意喚起へとつながっていく。
外国人も多かった。
スマホを向けながら『もっと振れ』とマイムされた。
動画を撮っていたらしい。
バカにされていたのかもしれない。
けどおもったほど輩系は通らなかった。
渋谷の繁華街。
この現場を断る同僚の大半がこの輩系をおそれてのこと。
しかしこの夜は一度もからまれなかった。
というか、歌舞伎町でもそうだったけれど輩っぽいひとほど「ありがとう」の言葉をくれる。
カップルも多かった。
男は会話に集中しているからこちらを無視している。けれどそのツレの女は男の話に相槌をうちながらもこちらに「ありがとうごさいます」と会釈してくれるのだ。そういう場面が多かった。
ご陽気さんのグループでもそのうちの誰か一人はこちらに気づいて「ありがとう」をくれる。
無愛想な雰囲気の人でもこちらの案内に頷いてはくれる。
思えば新人のころは歩行者誘導が大嫌いだった。
いやベテランでも嫌う人は少なくない。
もっともクレームを受けやすく、罵声、怒声、そういうネガティヴな態度を直で受けなくてはならないポジションだからである。
けれどある時、そこに立つ誘導員によってクレーム率に差が出ることに気がついた。
苦情が頻繁に起こるそのポジションにとある先輩が立つと、途端にそれが止むのだ。
同じポジションで苦情を浴びた新人はたまたま自分の運が悪いだけだと思う。
狂っているのはクレーマーだと。
もしくは民度の低い地域なのだと。
または施工計画に無理があるのだと。
どれも一理ある。
だから苦情はゼロにはならない。
工事自体が平時ではないのだから。
けれど、工夫することでその確率は減らすことはできる。
実際、その先輩には出来ていたのだから。
嬉々として、そして甲斐甲斐しく誘導する彼が場を和ませていた。
現場ではだれもそのことに気づいていない。
それ以前に彼の仕事を誰も見ていない。
あたしだけが見ていた。
あたしの休憩のためにポジションを代わってくれた彼を、休憩時間のあいだ見ていた。
大げさに言えば感動した。
敬服した。
心で拍手した。
場を司る者、
つまりこの場合は誘導員なのだけれど、
彼が「苦情が来るのではないか」「厭だなあ」と恐れていればそれは態度となって負のオーラとなる。
それがその場の『なんか厭な感じ』となって通行人に影響する、
……と思う。
車両や重機誘導ではこんなにありがとうをもらうことはない。
覚えてしまえば、役得だ。
か
た
じ
け
な
い。
ポジションを交代して休憩をいただく。
おっさんはいつものようにその街を歩く。
ただただ歩く。
公園の樹木は恒例の青いイルミネーションの取りつけ作業をしていた。
誰もいない野外音楽堂前のベンチでしばし休んだ。
この映画のクライマックスは観客に向けて、つまりカメラに向けて拍手をもとめる。
黒澤映画のなかでは完成度が高いとは云えない。
人気もぱっとしない。
有体に云って成熟していない。
けれどその映画の未熟が主人公カップルの不器用さ、ケツ青き情熱と相まっているところに惹かれる。
ひいては己の未熟に思いを馳せる。
敗戦直後という先行きの見えない不安のまっただなか。
それでも、希望を見出そうとする若者たちへの賛歌だ。
現代の若者のなかにも未来を嘆く風潮はある。
あるいはあきらめのほうが強いのかもしれない。
けれど現状に満足しないというのは推進力のカナメになるのではないかな。
そのぶん傷付きもするけれど。
この夜、路傍のおっさんガードマンに「ありがとう」をくれた大半は若者たちだった。
体育会系よろしく「あっす」もあった。
笑顔付きのもたくさんいただいた。
あたしゃ君たちのありがとうにありがとうと、
心で拍手を送ろう。
おつかれ。
☾☀闇生☆☽