↑これはまったく同意しますな。
よくぞ言ってくれたとすら思います。
常々同じことを感じていた方は、芝居でもコンサートでも、演者・観客双方におられたことでしょう。
かく云うあたしがそのひとりでして。
本編が終わって演者がひっ込んだら、とりあえずアンコールを催促と。
それも二回と相場が決まっており。
芝居のほうではカーテンコールというやつで。
充実感と拍手が釣りあってないと役者たちは敏感に感じるのだろう。ロボットかなんかのように無表情に出てきてはお辞儀、すぐまた出てきてお辞儀をくり返した舞台をいくつか目にした。
で、
役者が引っ込むや否やに照明がついて、白々としたなか追い出しと。
観客もコールは二回と心得ているから、粘着もしない。
義務しゅーりょー、とばかりにとっとと帰る。
空気を読めない演者なら、そこでくどくどと劇団員の紹介なんぞをおっぱじめるから、かなわない。
時計を気にしつつ、お付き合いをする羽目になる。
あれほどアホらしいものはない。
そこいくとコンサートはもっとつらいだろう。
催促に応じればまた何曲か演奏するというのが慣習になっているのであるから。
この慣習はアーティストの知名度に比例して、さながら『マナー』のように儀式化してはいないだろうか。
もしくは無言の同調圧力?
なんかね、おたがいの性欲も高まっていないのに、とりあえず会ったんだからやっときますか、みたいな関係のようで。
義務としてとりあえず誘ってはおきましたよ、と。
ええ。だから応じましたけど、なにか。の関係。
に加えて、どうせ同じ料金なんだ「出されりゃ食べておくにこしたことはない」的な、ケチくささ、貧乏くささがむせ返っちゃってはいませんかと。
これまで自然発生的に出くわしたアンコールやカーテンコールは、そう多くはなかった。
コクーン歌舞伎の『夏祭浪花鑑』とかね。
幕となるやワッと総立ちになったっけ。
途中だれるとこもあったのだけれど、圧巻でした。
あれもニューヨーク公演の盛況ぶりがテレビで報じられると、その観客たちのスタンディングオペ―ションの様子が知れわたり、感化され、凱旋公演では慣例化してしまいましたな。
(感化といえば、闇生の若き頃ヘビメタブーム*1があって、街なかのガードマンといえば大概がそんな貧しきバンドマンたちであった。ロン毛で茶髪というのがその頃のガードマンのイメージである。深夜にはヘビメタを扱った人気番組があって。そこで紹介される海外のライヴ映像は、観客はかならずといっていいほどバラードでライターを灯していたものであーる。我々ニッポンジンはそれにまんまと感化され、海外アーティストの来日公演ではここぞとばかりに猿まねをし、ついにはそれが慣例化してしまったのであーる。タバコを吸わない奴までバラードのためにジッポーを持参してコンサートにいどんだのだから、痛々しいじゃありませんかニッポンジン。思えば、ロック系のライヴは立って聴くというのも、まるでそれがマナーであるかのようになってしまった経緯も、まあだいたいそんなところだろうと思われ。KISSが初めて日本に来て驚いたことのひとつとして「観客がみんな座って、しかもちゃんと演奏を聴いている」とのたまったことがある。あのパフォーマンスを静聴されたんじゃさすがの悪魔も顔無しだったに違いない。80年頃のYMOの凱旋公演の映像では、観客は座って無表情に手拍子しているのがいまでもyoutubeなどで確認できますな。あれでも頭のなかでは十二分に盛り上がっているんです。没頭している。トランス状態。そういうものだったんです。それがあるときから座って聴いてると「ノリが悪いなあ」と白眼視される事態になっているではないのさ。)
仮にもナマなのだ。芝居なのだから、その回によって出来不出来もあるだろうに。
映画だと『ダイハード2』の新宿の先行オールナイト。
内容はともかく、
これはソフト化されたのちにビデオ屋を中心に口コミでその面白さが広まってついには劇場で再映される事態となった『1』への喝采の意味があった。
日本ではまだブルース・ウィリスの知名度はほとんど無かった。
それがタイトルがどーんと出た時点でロックコンサートの一発目ような騒ぎになった。
あれだけハマったNODAMAPをある時期からなんとなく観に行かなくなったのも、実はそんなこんなで。
それは主宰の野田秀樹自身が感じているだろうことも、感じられて。
おそらくはそのあたりに彼が海外公演に挑みつづけける動機のひとつがあるだろうことは、想像に難くなく。
要は、あの儀式化した喝采に甘やかされたくないのよ。
作り手、演者として。
衰えるから。
消耗するから。
お笑いだってそうだろう。
ブレイクから先というのは、次第に儀式化していく運命にある看板ギャグに対するお付き合いを、どうやり過ごすかが最大のテーマであり。
売れ過ぎると、何やっても女子高生たちがギャーギャー笑っちゃうから、あれも芸人殺しである。
あのギャーギャーはいまや選別のイニシエーションの意味あいがあるわけで。
ま、彼女たちは素直に騒いでいるわけだから、つまり儀式として冷めてやっているわけではないから、もっともっと厄介なんだけれど。
水をさすように一応断わっておこう。
その場の盛り上がりが、内容に比例しているとは限らない、と。
『ダイハード2』も『夏祭〜』も現場の熱気としては、幸福な記憶となってはいる。
んが、
作品自体の評価とはまったく別だ。
当時でさえ、好きな映画に『ダイハード2』なんかをあげたら、対人関係的にビミョーな距離を置かれそうなそんな危うさすらあったのだし。
いや、おもしろいよ。おもしろいんだけどお……。それが一番? みたいな。
ともすれば一周回って、どんな深読み・裏読みの果てに『ダイハード』のしかも『2』に至ったのかと、勘ぐられてしまうことだろう。
実はアレの場合、複数名でつるんで観に行ったというのがあたしには大きいわけで。
だからおなじメンツで顔を合わせれば、きまってその『ダイハード2』を観た夜の盛り上がりを反芻して語らうのだが、気づけば内容には誰ひとり触れていないのであーる。
良いモノは時間を置いて余韻があとからひたひたと満ちてくるモノが少なくない。
帰りの電車のなかで考えつづけるハメにもなるし。
のちのちまで思いだすことになる作品や公演というのは、打ちのめされたように、とっさにはリアクションできなかったものばかりではないだろうか。
個人的に、まず頭に浮かぶのはNODAMAPで再演した『透明人間の蒸気』。
新国立劇場の奥行きのふか〜いふか〜い舞台を活かした演出とあいまって、素晴らしかったっす。
あたしゃカーテンコールのお付き合いはせずに、じっと座ってステージを睨んでおりました。
あとは映画ならアニメ『人狼』。
エンドクレジットの間、満員の客席が誰ひとり席を立たず、場内に明りがついてなお、誰も声を発しなかった。
ベタだけどジブリもいくつかあるなあ。
ここでジブリをあげるのも、照れるなあ。
距離おかれるなあ。
ほかにもいろいろあるけど、まあ、この辺で。
最近考えるのだけれど、スポーツ的な、あるいは大道芸のような表現には、観客のリアクションがはやいですな。
より速く、遠く、大きく、高く、みたいなものは分かりやすいからその場では盛り上がる。
演奏でも、演技でも。
歌は、もっともわかりやすい身体性だろう。
声も含めた肉体芸は伝導性が高いぶん、炭酸のように揮発性も高い。
じゃあそこになにを盛り込んでいくかというところなんだろうなあ。
あとをひく面白さというのは。
表現者は、そしてその作品は、語られてナンボである。
時間をおいて第三者に語りたくなるような、そんな歌。演奏。芸。物語。イメージ。人物。。。。。
最近観たもので、その感想なり感動を誰かに語ったもの、あります?
では。ライターのご用意を。
とぅなーいとぅなーい、あいもんまいうぇーい♪
↓
上京したてのころ、かなり聴いてました。
足しげく通った西新宿の海賊盤街を思い出します。
☾☀闇生☆☽
追記。
とかなんとか書いたところで思いだした。
前の職場の同僚。
前夜に観た海外ドラマを必ず語りやがる。
それを聞かされるのが、つらかった。
いやネタバレは気にしないのだが。
物語の頭からケツまでを順に説明していくだけなんだもの。
彼なりの感想も、解釈も盛り込んでいないの。
ただ他人に語りながら頭の中を整理しているだけ。
小学生低学年の日記みたいだ。
○がつ×にち △よーび
あさおきておかあさんにおはようといってごはんをたべてはをみがいてふくをきて、がっこうにいった。
良い子のみんな。ああいうのは、やめようね。
おまけ。
関連動画を漁ってたら、いろいろ懐かしい。
で恥ずかしい。
今聴くと、こういう世界観て、もろ演歌ロックっすよね。
ダンシング・オールナイトとか、ああいう世界。
おくさん。でびかばですよ。でびかば。
↓
PVの世界観が、もーあれだ。カラオケだわ。
てかこの頃のロックまわりの世界観なのか。これ。
すげえ。
あらためて思った。
マジかよと。
更に追記。
当時あまり好きではなかったWhite Snakeの動画をだらだらと追っている。
マジかよ。続行中なのである。
エアロでも多かったと思うが、こういうののPVは『美女役』が欠かせないのね。
やたら出てくるよ。美女美女っとした美女が。
ボーカルのアップと、美女のセクシーショットというキャッチボールが定番だ。
マジかよ。