夜勤が続いている。
休憩は現場の車両のなかでとらせてもらえているので、どーにか寒さは凌げている。
ありがたし。
しかしそのせいで、すっかり本を読まなくなってしまった次第。
車内灯は、暗い。
だもんで、眠い。
食べるか、仮眠ばっかとることになってしまっている。
まずいのだ。
これはまずい、
これはまずい、と毎夜カップ麺を貪る闇生なのであーる。
しかしふと思い出した。
俺。DS持ってんじゃん。
ケータイはいまだにガラケーで、変える必要性など微塵も感じていない、いわゆるガラパゴス・オッサンではあるが。
略してガラ男と呼ばれて久しいが。
てか、そんな言葉無いが。
そーいやDSは持っていたのだ。
加えて、かつてブックオフで『日本文学100選』なる中古を、ワンコインでゲットしておったと。
気まぐれで買ったはいいがこんな機会でもないかぎりこんな仏頂面したソフトなんか起動させんだろし、泉鏡花や国木田独歩など読まずに人生を終えることだろうと。
さっそく夜勤に持って行った。
作家名の五十音順に読破していこうと決める。
明治から昭和までの文豪、その数26名。
まずは『あ』だ。
筆頭は立花ハジメ。もとい芥川龍之介である。
読んだものが多いので再読とあいなったが、うん、面白いね。やっぱし。
『蜘蛛の糸』なんて、何年ぶりだろう。
覚えてます?
カンダタを。
殺人や放火までした大泥棒が、お釈迦様の差し伸べた蜘蛛の糸を使って地獄から脱出しようとする、お馴染みのお話。
その悪人カンダタといふ。
彼がお釈迦さまにチャンスを与えていただく根拠が、生前にたったひとつ善いことをしたということだった。
路ばたを這っていく一匹の蜘蛛を助けたという。
しかし読んでみると、直前にカンダタは蜘蛛をみるや足を挙げて踏み殺そうとしているのである。
そのうえで「可哀相だ」と、自ら思いとどまったに過ぎない。
踏み殺そうとしたからこそ、そのあとのキャンセルが効いて『救った』ということになっているのであーる。
もしこれが、赤の他人が踏み殺そうとしているところを身を呈して助けたのなら、文字通り救ったと言っていい。
んが、カンダタは単に思いとどまっただけなのである。
ということはだ、
路ばたに蜘蛛を見つけても踏み殺そうなどと思いもせずに通り過ぎる一般的な大多数の人たちは、救っていないことになる。
フツーに通り過ぎるだけでは、救っていない。
いちど殺意を抱いてからキャンセルすれば、救ったことになるのだ。
何を?
蜘蛛を?
いや自分をか?
ううむ。
この『自分を』といういい子ぶった解釈に落ちつけるのは簡単だが、釈然としない部分があることは否めない。
フツーに学校を出て、そこそこのとこに就職して、酒もタバコもギャンブルもやらず、それでいて独りもんだと、なんだかふらふらと遊んでいるみたいに思われて。
その一方で、学生時代に散々不良としてのしあるいて、なんなら少年院から刑務所までお世話になって、成人してのちなんだかの職人の卵となって(いわゆる)できちゃった婚でささやかな家庭を持てば、あのコは更生したと持て囃される。
方や皆勤賞で、ぼっち。職場としみったれたアパートの単調な往復の日々。
他方、元不良は講演したり、手記を出版したりして、喝采に包まれる。
なんかそんな差別と似たにおいが、しないでもない。
重要なのは、ここでいうお釈迦様的なレスキューを、外にもとめるか、内に育むか、でしょうな。
カンダタにとっては、自分本位で蜘蛛を殺しかけて思いとどまったことだけが、思い当たった唯一の善行で。
苛む半生への後悔の念から、わらをもすがる、否、蜘蛛の糸にもすがる思いでそこにお釈迦様を見て取ったのであーる。
☾☀ガラ男☆☽