以下、ネタバレのつぶやきです。
意志・意識とはそれ自体が一個ではなく。
人間のさまざまな言動や選択が、
その結果として得たある種のご褒美(たとえば快楽、カタルシスなど)によって動機付けられ、
繰り返しそれをしたがる欲望となり、
そんな欲望の多種多様な群れがワイワイと競って主張しあっている会議、それそのものを指す、という。
ああしたいこうしたい。
あれが食べたい。あれを着たい。
会いたい。逃げたい。
動きたい。止まりたい。
寝たい。起きたい。
そんな、個人のなかの俺が俺が状態であると。
その挙句で優先順位が決議され、
それが実際の言動となり、
またそこである種のご褒美へとつながれば、その欲求の動機付けはさらに強化され、くりかえしそれをチョイスするようになる。
ひとえに『わたくし』という名のクラスの学級会である。
ひとりのなかに共存する多種多様な欲望どもの、がやがやわいわいとした我の張り合いだ。
で、
決議され、採用されたその欲望くんAの主張が、なにかしらうまくいってクラスが味をしめればだ、それは以降の『わたくし』組での発言権に大きく作用する。つまり、またあれをやろうぜ、となる。
して、
完璧に調和のとれた世界とは。
この意志、意識の必要としない世の中だ。
議論が、
して学級会が無い。
流されるまま。
空気に従って。
逡巡も、葛藤も、選択の焦燥も、迷いも、思考さえも要らない。
考える必要がない。
ならば争いも極めてシンプル。
ルンバが壁に当たって方向を変えるがごとくに。
限りなく動物に近く。
植物のように。
よって楽園とは、自意識を捨てた状態なのだという。
それは死、のようなものなのではないのか。
神が天国をこの世ではなく、あえてあの世に設けたユーモアは、つまりがそういうこと。
自意識ゆえに人は苦しみ、争い、嫉妬し、自殺するのだし。
生きるとは、そういうことなのだし。
皮肉なことだが戦争も、自殺も、意志の最大の産物といえるのかもしれない。
意志あるがゆえの。
生きているがゆえの。
厄介なのはこの意志を捨てた状態の日常は、なんら普段と変わらないということ。
流行に身をゆだね、言われるがままルールに従い、税金を払い、ブームに合わせて、風潮と一体化する。
体調管理も、健康維持も、美容もいまやアプリケーションまかせだ。
心まであれだ。セラピーだの、カウンセリングだの、投薬だのと。
考えない。
考えたくないのだな。あたしたちゃ。
人間は本当の自由には耐えられない、とはドストエフスキーだったか。
カラマーゾフの兄弟?
あたしたちゃなにかと従属したがる生き物らしい。
不肖闇生、
天国のビジョンをぼんやりと空想するとき、子供の時から『退屈』の二文字が浮かぶ。
笑いとは、緊張の緩和状態である、とは桂枝雀。
つまりがその意味において、この世から解放されたてのあの世では笑顔に溢れるはずだ。
ほっとする。
けれど、それが永遠に続くのはやはり退屈だろうに。
必要性を失った自意識は、やがておのずと溶解するほかなく。
意志、意識を捨ててまでのそれを幸福といえるだろうか。
その苦しみは、
その逡巡は、生きている証しなのだ。
生命至上主義への警笛を小説で、しかも娯楽としてここまで痛烈にやらかしたのは、偉業でしょう。
人呼んで早世の天才。
大いに結構。
やりやがった。
☾☀闇生☆☽