壁の言の葉

unlucky hero your key


 ここのところ、暇ができると何かといえば小説をなおしてばかりいた。
 過去に書いた長編小説のうち二本を。
 むろん、他人さまのお眼鏡にそのまま通用するかというと、心もとない。
 非力だ。
 けれど、
 まあ、なんじゃかんじゃと悩みつつ、ただ待っているよりは、よっぽどいいのではと思う。
 少なくとも、
 いやかろうじて、
 前向きなことをしているのではないだろうか。
 

 どうせだから、
 無謀にも公募に送付しておいた。
 いや、送付するために仕上げなおした。
 こういうのは合否がでるのに時間がかかるもので。
 春に送ったののオチは、秋か冬につく。
 最終審査まで残ればということだけれど。


 これは、なかなかにじれったいのだが。
 裏を返せば、たのしみをそれだけ未来側に留保するというこった。
 その間に、また別のことをすればいい。
 むろん、別に小説でなくても。
 職探しもそうだ。
 なんなら宝探しもしてしまえ。
 いっそ佐賀市に行ってしまえ。
 

 こういう趣味をもつ者にとっては、やはり、感想をくれる仲があるとありがたいのよ。
 けれど、
 悲しいかな、あたしには、いない。
 たとえば「俺も書いてんだ」と。
 あるいは「描いてんだ」と。
 「作ってんだぞ」と。
 そんな人を何人も知っている。
 でもって案の定「感想をくれ」と作品をたくされる。
 みんな同じなのである。
 お言葉にあまえて感想を云わせてもらう。
 して、こんどはお返しとばかりに自作をたくす。
 問題はいつもそこでおこるのだ。


 なしのつぶて。


 若い頃は、それに苛立った。
 やがてその無反応もまた、自作への評価なのだと、そう解釈するようにしたり。
 けれど、彼らは赤の他人様でもないわけで。
 ならば感想とまではいかないまでも、反応ぐらいないと、やっていけなくなる。
 批判もまた、反応である。
 いや批判こそありがたいものだ。
 的確に批判するのって、労力がいるものね。
 それすらないのはなあ…。
 これは甘えでもあるのかもしれないが、まあ、なんだろ。つらい。
 といって、


 「どうだった?」


 と訊くのもダサい。
 はからずも、対マグロ戦となってしまったエッチのさなかに、いちいち「ええか?」と確認するぐらいの羞恥心とむなしさをともなう。
 それもこれも、それに至るまでの人間関係の積み重ねに、なんかおっちょこちょいがあったのやもしれぬ。
 ようするに前戯に。
 いわずもがな、あたしの側に。
 で、
 そんなことよりもだ。
 重要なのは、それによって客観が遠のいていくということ。
 それにつきる。
 あけすけにのたまってしまえば、そりゃあ正直ほめられたいさ。
 もう、あられもなく、絶賛されたい。
 てのはうそで、身の丈を超えた賞賛は、それはそれでむなしいのだ。
 重要なのは、他人さまの感想なり批判なり、反応を導きだしてはじめて作品というものは、成立するということ。
 たとえば、自分という人物の評価。
 それが、世間なり社会なりからあるのと、ないのとでは大きく違う。
 それまでは個人の妄想の域をでない。


 となれば、あたしには、いきなり公募になってしまう。
 その妄想と、公募の中間がないとこが、痛々しいではないか。
 仮免で、いきなりF1に参戦するような。


 しかも、時節はちょうど各文学賞の応募締切の季節。
 それぞれの傾向と対策など、調べているひまなどなく。
 また、調べて今更どうにかなる技量でもなし。
 憑かれたように、仕上げてみた次第。
 不安のさなかでのことなので、これが唯一のよすがとなったのであーる。
 それは、底なし沼にみつけた、足場だ。
 

 それはそれとして、友だちというものは、大切なのだなと。
 日々、思い知るばかり。
 そりゃあ欠点もふくめて受け入れてこそだから、傷つきもするが。
 ひとりの底なし沼はつらいよ。マジで。





 湖畔に鬼太郎親子でも住んでねーかと。


 ☾☀闇生☆☽