壁の言の葉

unlucky hero your key

あんよ。

 あんよ痛い痛いの巻。
 引き続き痛風に苛まれている。
 とはいえ日常生活にはこれといって影響はないのだが。
 正座とうんこ座りができないぞ、と。
 我がオンボロアパートは、あたしが居続けるせいであたしの部屋のトイレだけがいまだに和式である。
 大家はあたしの転居のタイミングで改装を目論んでいるに違いないのだが、そうはいかないのであーる。
 よって、片膝を立ててお大便をいたすという、酔狂な事態になってしまっている。
 庭先で殿からの下知をいただく忍びの風情だ。
 

 拙者


 の風情でこうべを垂れ、
 うんこも垂れ、
 密書をあずかる風情でトレペを粛々と引き出す。
 ありがたきしあわせ。


「散れ」


 と云われても、びっこひいてずりりずりりと退散するほかない。
 なんだこの体たらく。
 土日、そして月曜の昼間を寝てすごした。
 進撃も飽きた。
 後半の政治的なんちゃらかんちゃらになっていくと、あたしなんかの拙い読解力では、どちらの民族がどちらの政治勢力なのかわからなくなってくる。
 というより、わかろうとしていないのね。頭が。
 手足が未熟な巨人と化してしまったお母さんは、首筋を切り開いて取り出してあげられないのか。その設定の説明もあったのだろうが、気になったままほったらかしだ。
 だもんで眠れてしまう。


 今夜も夜勤である。
 あわよくば雨天中止となるのではと期待したが、夜半には止むらしい。
 

 最近、
 現場では若い後輩から同僚への不満を聞く。
 曰く、どつもこいつも『老害』と。
 しかしそう批判される『老害』たちはあたしと同年代なのであーる。
 だから思うのだけれど、そもそも世にいう老害の定義って、何?
 その老害たちの若かりし日を知る身としては、何も変わっていないと思うのだ。
 曲ったことが大嫌いで。自分なりの正義を貫こうとし。政治的に立ち振る舞うことを訝しみ、感情と好き嫌いの感覚のままにふるまうのをまっすぐであると信じて疑わない。そんなケツ青き尻っぺたの若い頃のままに、ただ歳を食っただけ。
 歳をくったぶんだけ経験則を後ろ盾にできてしまえている。それだけ。
 

 『老害』という言葉は、いつからあったのか。
 自分の若い頃は聞かなかった。
 だから頑迷な年寄りに出くわしても、その『老害』なる概念にすり寄ることもなかった。
 できなかった。
 頑迷なことの原因が歳だと考えたこともなかった。
 しかしいまや自分を否定する年長者はことごとく『老害』フォルダに片付けてしまえという風潮が、卑近なところにはあって。
 むろん世間ではどうかは知らない。
 しかも彼らは批判はするものの自分で年寄りの役を買って出ようとはしない。
 現場のアタマを批判・非難はするくせに自分がとってかわってアタマに立とうとはしない。 
 仮にその姿勢のまま歳を取るならば、その態度をこそ『老害』と言われやしまいか。
 で、その愚痴をおなじ年寄りのあたしにぶつけてくるということは、あたしがまだ老害扱いはされていないということなのだろうが、それは少しもうれしくない。
 老害たちは後輩たちに怒鳴り、叱り、説教してやるが、あたしゃそんなやさしさを持っていないだけのことだからだ。
 頼まれもしないのにそんなことにカロリーを使ったところで、なんの得もないのだし。
 効果もないことは分かりきっている。
 仮に、アドバイスを乞うてくるのがいたとしても、その『罠』にもひっかからない。
 たいがいが「ありのままの自分を肯定してほしい」だけのことだ。
 なぐさめてほしいのだ。
 いい奴。いい先輩。いい仲間。
 それは善悪の問題ではなくて、自分にとっての都合のいい奴というだけのこと。
 そんなウケ方をしたところで、何もない。


 あたしがアタマを張る現場に入りたい、とかつてよく言われた。
 そこは素直に、ありがたし。
 けど、それも自分が楽をできるから、というだけのことだ。
 怒鳴らないからね。あたしは。
 でアドバイスや指導も、二度までかな。
 それで気づかない奴に対しては諦めているだけのこと。
 よくよくならば、だまってチームから外す。
 人間、誰かに言われて成長するなんてことはない。
 自分で気づけるかどうか。
 自分で気づけなければ直らない。


 赤ちゃんが立つのも、
 病人が回復するのも、
 薬物依存者が立ち直るのも、
 修行者が悟りを開くのも、
 助けはいろいろ借りるだろうが、
 最終的には自分だろう。
 


 と、この痛風もちは思う。
 痛みが引き次第、あれを飲もうかこれを飲もうか画策しておる次第。
 救えねえ。
 さて、痛み止めを飲んで夜勤だ。



 ほんとに止むのか? この雨。


 

 ☾★闇生☀☽