昨日の『アラビアのロレンス』に続ける。
あくまで想像の戯れとして、
こんなことも考えてみたよん。
ロレンスは、孫悟空だった、と。
んな馬鹿な、と言われればこう答えちゃおう。
「はい」
ご存知のように、玄奘三蔵につかえるまでの孫悟空は尊大で、野卑で、唯我独尊。
けれど、それはあくまで玄奘側の倫理観での批評だ。
孫悟空は人間の倫理の外側にいただけであり、彼なりの信条にもとづいて自由を体現していたのに過ぎないのではなかろうか。
飼いならされるまえの野生としてね。
野生ならば、そこに善悪はないだろうよ。
絶望もないかわりに、希望も。
ばかりか自由も不自由もない。
躾けられて不自由を知り、引きかえに自由を認識して、人は野生を脱していく。
脱いではじめて、馬鹿を知る。
ともかく、
彼は己の絶対を信じてこの世の果てに挑むのだが、所詮はお釈迦様の手の中だ。
そこに、まっぱでちっぽけな自分をあらためる。
畏れ入り、この世の偉大をたしかめる。
猿が馬鹿を、知ると。
ロレンスが小うるさい軍紀に縛られず、
さながら天衣無縫を気取っていられるのには、彼なりの自由や正義があってのこと。
あくまで「彼なりの」だ。
その独立した姿は風通しがよく、まことにもってすがすがしい。
有り体に言えば、かっちょいい。
そして彼はその信条の普遍性を信じて、ひたすら砂漠を走ったのだな。
けれど、それがロレンスの考える「この世」のすべてに通用するとは限らないわけで。
もしくは普遍性を強いてはならない場合も、あると。
それが更なる悲劇を生んでしまう場合が。
悪意、曰く
「純真という馬ほど、御しやすい馬はない」
キリスト教圏のロレンスが、
アラーの砂漠に挑むこの映画を、
仏教的神話を背景とした西遊記にたとえるのも、我ながらみょうちきりんだとは思う。
なんたって、このみょうちきりんがそう思うのだから。
でもね、
不肖闇生は、日常へ帰還してゆくロレンスの姿に、孫悟空を見たのだ。
この世の果ての、その果てしのなさに絶望し、畏れ入る孫悟空の姿を。
☾☀闇生☆☽
そして、
悟空は、絶望から旅を始めたのだよ。
追伸。
GODIEGO(ゴダイゴ)の代表作『MAGIC MONKEY(西遊記)』。
あまりにモンキーマジックとガンダーラが売れすぎてしまったために、他の曲が省みられません。
もおっ。
このアルバム、コンセプトアルバムとしても、なかなかいいデキなのですよ。
あたしゃあえて上記二曲をスキップしますね。
FlyingとThank you ,Babyは、今でもついつい鼻歌かまします。
なんかね、Wingsっぽい、明るく分かりやすいロックで、なおかつ良質というのは、なかなかどうして。
貴重な存在だったかと。