うっかりとすると部屋にこもりっきりで、休日を終えてしまう。
そんな、出不精の研鑽に励んでいる、今日この頃なのである。
いかん。
そうなりゃ手っ取り早く、映画だろうと。
能のない男だから、そんなもんしか頭に浮かばんのさ。
調べると、丁度デヴィッド・フィンチャー監督作の新作が封切られたばかり。
傑作『セブン』『ファイトクラブ』以来の名コンビ、ブラッド・ピットと組んだアカデミー賞候補作というのだから、観ておくべきだろう。
と意気込んではみたのだが、ううむ。
企画に、このコンビ特有のブラックな匂いが、しないのだな。
老人としてこの世に生を受け、時とともに若返っていくストーリーだという。
とすれば流れは、アメリカ現代史とまではいかなくても、近代化のオムニバスといったところだろうか。
して、自分だけがどんどん若返り、
周囲のことごとくが老けていくということは、
それぞれが個別のボートを同じ河の流れに委ね、合流や別離を繰り返す、という人生観にはならない。
そこにあるのはきっと、自分のボートだけが逆行していくという、孤独だ。
出会いと別れとの間に、ともに手をとって歩むという感覚はないに違いなく。
一切がすれ違っていくという、せつな的な対人関係。
そこが『アルジャーノンに花束を』的ならば、ツボ。
てか、あたしの急所っ。
いやん。
ならばやばいぞ、これは。
という警戒心と、
かててくわえて、流行モノには背を向けようとする、持ち前のひねくれが作用してしまって、あえなく却下とあいなった。
映画館に向かう電車のなかではまだ迷っていたのだが、結局のところ、そうした。
で、
どうしたかというと、新宿の高島屋タイムズスクエア。
そこで『アラビアのロレンス≪完全版≫』をやっているというではないの。
これぞ名作中の名作というやつで、
なおかつ『大作』の名誉会長といっていい。
おまけに巨匠デヴィッド・リーンの代表作で。
とどめが名優ピーター・オトゥールだ。
けれど、そこまでどぉぉぉんとハクがついたものほど、なかなか踏み切れないものである。
ましてや、四時間だ。
ちょいとした睡眠時間ではないか。
実はVHSで何度かチャレンジしてはいるのだな。あたしゃ。
けど、いつだってリタイアよ。
なんせ二巻組だもの。あーた。
にもかかわらずスケールも、画面も、圧倒的なまんま、少しもひるまないんだから。
これは生半可な気持ちで対したのではいかんぞと、いつも心して挑むのだが、あえなくハーフタイムで燃え尽きてしまう。
真っ白な灰にね。
でもって、後編は「またあとで」と自分におあずけをしてしまうのだな。
おそらくこういう作品は、手前勝手のテリトリーに連れ込んで味わうものではないのだ。
つまり、リモコン無しで。
服従して、いそいそとこちら側から、
「ごめんください」
とお邪魔する。
主導権は、あくまで映画側に。
でないと、一生観終えることができぬわい。
というわけで、
これさいわいと、お邪魔してきたのよ。
客層は年寄りばっかと思いきや、案外、若いカップルの姿もちらほらと。
けれど、映画にうるさそうなおっさんが、あたしの隣の席である。
でもって、上映まえから苛々としているではないの。
そのオーラは、さながら「音立てんなよ」だ。
ぴりぴりしてんだ。
そのくせ、開演わずか三十分でこのおっさん、ぐっすりと眠りこけるんだから。
ったく。
鼻息、ふぃよふぃよさせてさ。
さて、感想だが。
今回のはあまりに名作だし。いまさらなんで、くわしいことは控える。
ただ、オリジナル制作時には想像だにされなかった9.11と、現在のアラブ情勢までを知るのが、こんにちのあたしたちだ。
『今』観る役得は、そこだ。
でもって現状と重ね合わせて、四時間かけて、俺たちって進歩がねーなと。
そう思い知るのではないでしょうか。
ロレンスは実在の人物。
その彼と比べて、映画のはあまりに美化しすぎている、などと言われているようですが。
どうでしょう。
あたしゃ実在のほうに詳しくありません。
けれど、
肌の色や文化・文明の違い、
そしてそこに露わとなる「文明と野蛮」という、野蛮な構図。
部族の違い、
価値観の違い、
死生観の違い。それらが色濃く浮き出ていて、つらつらと考えさせてはくれる。
ロレンスの傷心と絶望は、それら埋めることの適わぬ差異に。
そして、なにを隠そう自分もまた、そんな差異の中に生きるしかない不完全な存在であるという。
とどのつまりが、それこそが平凡として生きるということで。
そんな諦観。
これは、現代人にも充分共鳴できる眺めなのであーる。
☾☀闇生☆☽
とな。