たとえば、
赤穂浪士の討ち入り。
四十七士の面々は、見事、主君の敵を討ってヒーローとなった。
唐突になんだとお思いでしょうが。
最初に言っとく。長いよ、今日のは。
敵討ちは武士にとっての正義だもんで。
んが、それは将軍さまのお膝元でのこと。
花のお江戸を騒がす違法行為でもあるわけだ。
とはいえ、心は一つの四十七士。んなこた云われなくとも、死は覚悟の上で。
いさぎよくお縄につき、腹を切ったのであーる。
江戸の庶民は、やんやの喝采だ。
コトの顛末を芝居にしたてて、語り継いだ。
恐らくは、四十七士の遺族もまた、ながく敬われたに違いない。
ところで、
この赤穂藩の召抱える家臣というのは、およそ三百だったそうな。
ってことは、残りの二百五十余は、この栄誉ある討ち入りに加わらなかった。
ならば、時とともに四十七士が英雄視されていくなか、不参加組とその家族は、肩身のせまい思いをしたのではあるまいか。
自らの臆病と向き合いながら。
あるいは背を向けながら。
ひらきなおっちゃったりね。
それでも、きっとどこかで生きていたわけで。
あのな、落語っていうのはな、この、逃げちゃった二百五十側を語るんだ。
そんなことを云ったのだそうだよ。立川談志は。
これは、先日触れた立川談春著『赤めだか』で紹介されていたエピソードである。
なるほど、正直者が努力して頑張って、それがかなって花咲いた。
悪いやつにはバチがあたった。
そんなのばかりが人生ではない。
大多数は臆病で、ケチで、ズルくて、スケベで、どこか抜けてて…。
それでもしっかり生きている。
考えてみると落語というものは、なるほど、因果応報なんぞでは落とさない。
信賞必罰はむろんのこと、
教訓めいたことも、ほとんど言わない。
『黄金餅』なんて噺は、こうだ。
ケチな坊主が重い病に臥せっていて。
溜め込んだカネを残したままでは死に切れないと、身銭をぜんぶあんころ餅にくるんで呑込んでしまうのだな。
案の定、坊主はそれでおっちんでしまうのだが。
その一部始終をある男が覗いていて。
彼は遺体の腹のなかの銭を、どうにかしてモノにできないかと。
考えたね。
情け深いふりをして、死んだ坊主の弔いを買って出るのだ。
挙句、火葬を「レア」で焼いてもらい、遺灰からまんまとお宝をゲットすると。
のち、それを元手に店をはじめ、繁盛するのである。
めでたし、めでたし。
なんでこんなことを書いているかっつーとね。
週刊少年ジャンプで連載されているNARUTO。
知ってます?
えらいヒットしているらしくて。
アニメにもなり、単行本はいまや五十巻近くになる。
そこで、乗りおくれた人たちにもファンになってもらおうと、おおかたそんな目論見なのだろう。
これまでの総集編が、回を分けて発売されるという。
この闇生。
司馬遼太郎の忍術ものや、カムイ外伝なんかを好物とする。
であるからして、この架空の世界の忍者が活躍するNARUTOが、気になっていたのだな。
で、そこへきてこの総集編だもの。
これ幸いと、遅ればせながら一巻目を読んでみたのではあるが、
うん、
おもしろいじゃないすか。
あたしがあの手のものに期待するのは、闇を媒介とする妖術・幻術のどろどろ感だ。
魑魅魍魎とのメッシー・プレイだ。
有り体に言えば、暗示と科学の巧みなコンビネーションだ。
ところが、それがこのNARUTOにはまったくないのね。
あっけらかんと。
術の不思議は、不思議のまんま。そういうものでございと。
んでも、
いいんじゃないっすか。
てか、不肖闇生、うっかりジンときてしまったくだりもあったくらい。
泣いたよ。
それはともかく、
先に触れたような落語モードの余韻を引きずったまま、これにあたってしまったのが、いけなかったのだろう。
だからちょいと、
というかかなり、照れちゃったのだな。柄にもなく。
なんせ少年漫画だもの。
勇気だ、
友情だ、
忍耐だ、
努力だ、
恋だ、
バトルだ、
善だ、悪だ、
因果応報だと、そりゃあもう、これでもかってくらいに、まばゆいんだもん。
努力はかならず報われるんだし。
んでもって、主人公は若いし。
なるほど、それが少年誌の役割ですな。
正直、好きです。
けれど、それには収まりきらない部分が、ナマな人間にはありまして。
それを確認させるのが、落語のポジションではないかと。
このたびは、思った。
爆笑問題の太田光がプロデュースしたDVD『笑う超人』。
そのなかで談志は、芸術やら娯楽というもののは、人間の残虐で醜悪な部分を、擬似体験させる役割なのでは、と。たしかそんなことを云っていたのだ。
我々はそれでガス抜きをしていると。
あるいは、戦争もそうなのかもしれない。
そんなヒトのケダモノの部分が、しゃっちょこばった規制にかかって窒息してくると、みょうちきりんで猟奇的な事件という形で、ある日ひょっこり社会に飛び出してくる。
米国で顕著なようにね。
ここのところ日本もそうなってきた。
けれど、こうも思うのだ。
押井守がその著書『凡人として生きるということ』で述べていたように、真似る習性が、そもそも人間にはあるわけで。
この習性のおかげで言葉を会得したり、学習したり、サボったり、衣食住はむろんのこと車の運転から、プレイとしてのセックスまで、もろもろを愉しんできた。
とどのつまりが、真似ることで文化を勝ち取った。
人間になった。
となれば、ガス抜きのためのシュミレーションとして表現した残虐非道が、現実世界に模倣を生むことにもなるだろうと。
ところがね、長年われわれが親しんできたこの落語。
これには残酷な噺が少なくないのね。
にもかかわらず、それが模倣犯を生んだなんてのは、とんと聞かないのだな。
『らくだ』なんて噺は、死体を躍らせての恐喝である。
『首提灯』では、すとんと切り落とされた泥棒の首が、ころころとおもてに転がりでてしまう。
通りかかった火事見物のながれに乗って、泥棒は自分の首を提灯に、
「火事だ、火事だっ」
って。
どろぼうに入っただけで、試し切りに落とされた首ですよ、あーた。
『胴切り』では、 辻斬りに一刀両断にされた男。
使われたのがよほどの名刀だったのか、上半身と下半身に分かれてもなお、生きている。
そこで、上半身は風呂屋の番台に。
下半身は麩を踏む職につく、という噺。
『たがや』なんて噺は、もっとすごい。
花火見物でごった返す両国橋。
花火が打ち上げられるたびに、
「たーまやー」
「かーぎやー」
なんて声がかかって、賑やかこのうえない。
そこへ殿様をのせた輿が、臣下に守られながらそこのけそこのけと押し入ってくる。
桶職人のたがやが、その行列に粗相をしてしまい、
「手討ちにいたせ」
となった。
平身低頭、謝ったがゆるしてもらえないから、たがやはキレたね。
侍のなまくら刀を奪って、孤軍奮闘。
見物客は大喝采だ。
しまいには、このたがや、みごとに殿様の首をすぽーんと討っちゃった。
切られて高々と夜空に飛ぶ殿様の首。見物客は思わず、
「たーがやー!」
冷静に考えればどれも残酷なのに。
演者の技量にもよるのでしょうが。
うん。
ね。
映画で云うと、黒澤明の『天国と地獄』を真似た誘拐事件は有名だし。
高倉健の任侠モノや、『仁義無き戦い』にあこがれて、ドロップアウトしちゃった人も少なくないと聞く。
とすると、やっぱ映像なんでしょうかねえ。
安易に、安直に、模倣させるのは。
かく云うこの闇生。
エロDVD屋でござる。
AVの模倣と思わせるワイセツ事件が、年々増えているから、考えてしまうのだ。
集団痴漢とか、
集団レイプとか、
監禁なんたらとか。
盗撮とか。
いや、まてよ。
ひょっとして、本当に現代にうったえる落語ができたならば、模倣を生むのでしょうか。
皮肉なことですが。
ま、
あたしなんかが考えたところで、どうにもなんないんだ。
うん。
けど、なんだろ。
NARUTOを読んだら、かえってつくづく思ったよ。
落語って、おもしれえ。
人間って、おもしろいと。
四十七士も、逃げちゃった二百五十余も、どちらも人間の一面には違いないしね。
むろん四十七士がえらいことには変わりない、としたうえでだ。
松尾スズキが芝居『キレイ』に書いている。
人間は多面体だと。
イルカを保護したその手で、便所の壁に嫌いな女の電話番号を書くものだって。
『千円でやらせる女』とか。
ま、いいや。
長くなっちゃったぞ。
NARUTOに泣いて、
志ん生に笑い、
デビット・リンチにしびれて、
やさいのようせいのレタスさんにときめく。
そんな闇生なわけでござる。
そろそろブログおっぱじめて一年だ。
こんなんですんませんと。
こんなんですが、どうぞ、よろしくと。
☾☀闇生☆☽