つい一気に読んでしまった。
タイトル買いである。
立川とあるが、一門にそんな名前があったか記憶にないので、購入前に巻末をあらためた。家元の直弟子か、はたまた孫弟子か。著者のアイデンティティのチェックである。
ところが、談志が落語立川流を創始する10年以上まえからそう名乗っているとのことだ。
タイトルに惹かれて買ったが、内容は談志と志ん朝にまつわるものばかりでもない。
文楽、三木助、圓生、志ん生、小さんら昭和の名人たちの逸話はむろんのこと、その次世代を担うところの談志、志ん朝、円楽、円鏡らのエピソード。とりわけ一つの噺を各人がどう演じたのかの比較が綿密で面白い。
それぞれがそれぞれの芸をどう評していたかも、紹介されてある。
そして、これは好き嫌いがわかれるのかもしれないが、著者が顔を出す。
かつては落語の噺それ自体が主役であり噺家はその黒子を担当していた。
それを談志は、落語もいずれパーソナリティの時代となることを予言して『 意識的 』に体現した最初の人。
まるでそれに倣うがごとく、著者は名人たちの逸話の黒子をつとめつつも、落語にまつわる著者自身の人生経験にもページを割いているのである。
この部分がつまらないと、『 談志 』『 志ん朝 』らの名前を求めて飛ばし読みしてしまうところだが、なかなか読ませてくれるし時代の風景を感じさせるので味わいがある。
落語は、演者の技術だけでなく実体験とリンクさせて初めてリアリティを獲得するのだから、なるほど著者がどう解釈してどう生活に結びつけたかは、読者としておさえておくべきであろう。
最後に、
談志ファンに志ん朝を悪く言うひとはいないが、志ん朝ファンの多くが談志を貶す。みたいなくだりがあった。
そうなんだよねえ。
志ん朝は志ん朝で大好きなんだ。談志ファンは。
談志が、志ん朝の高座だけはカネを払って見る価値がある、とまで称賛し。
また志ん朝にも、談志に敬意を払うエピソードが少なくないにもかかわらず、ファンはそういうものなのだ。
現代を古典の世界に引きずり込む志ん朝の研磨された芸があったればこそ、談志はある時から落語を解体し、代謝をうながすべく古典を現代に現出させることに専念できたのではないのか。逆もまた然りだ。
というわけで以下は「 たられば 」になってしまうのだが、
志ん朝がもう少し長く生きたなら、晩年の談志の芸の打率も、あるいはひょっとしたら健康状態も変わっていたかもしれない。
闇生