ティム・バートン監督作『ビッグ・フィッシュ』。
DVDにて。
以下は、その感想である。
ネタバレと解釈されるかたもあるかもしれませんので、ご注意を。
その父は、ほら話の名手である。
だからその息子は、そんな父の語る奇想天外を聞いて育った。
しかし、いつのころからか、子は父の話のファンタジーを他愛もない嘘と、切って捨てるようになってしまうのだな。
うん。かわいくない。
おそらくは科学と現実を認識し始める、反抗期からだろう。
ある時期から誰もがサンタを信じなくなるように。
むろんそうなれば、父の語る、まるでおとぎ話のようなその半生を信じることなんぞできっこないわけで。
たとえば天を突くような巨人と旅をした話。
見た人の死に方が映る義眼をもつ魔女。
密林をさまよって辿り着いた理想郷。
二本の脚に二つの胴体で歌う双子の美女。
彼女たちと連れだって、命からがら戦地から帰還した話。
どれも聴かされつづけてうんざりしている。
よっていつからか、子は父と向き合うことを避けるようになってしまっていた。
しかし、
その父がいよいよ死を迎えることになると子は、真実の父を、その過去を、知ろうとするのだ。
父は、過去をほら話で隠していると。
たとえそこに卑怯があったとしても、あるいは悪者であったとしても、ありのままの父が知りたいのだと。
しかし父は、頑として自分の話を曲げないのであーる。
この父が愛した、現実への装飾。それこそが表現であると、不肖闇生は、思う。
しかし、それは、えてして虚構や無駄や非現実的であるとして、日常ではデリートされがちだ。
メールのやりとりひとつをとっても、要点だけの味気ないキャッチボールになってしまう。
それはさながら、盛り付けの工夫のない、栄養だけを考えたゼリー食のようで。
はたまた、厳選した素材を、せっかく手間暇かけて調理したというのに、最後の最後で、袋詰めにして差し出すようなものである。
がっでむ。
装飾の遊びにこそ、人生の楽しみがあるのであり。
もっといえば、愛も、そのひとつではないのかとも思うのだな。あたしゃね。
エロDVD屋の分際で愛を語るなんざ、可笑しいがちゃんちゃら鳴っちまいますがね。
獣性と理性とのあいだをさまよい、
『行』き『来』してバランスをとるのが人間という『行来者(イキモノ)』だ。
理性側に偏りすぎると、これはこれで堅苦しくてつまらないし。
また獣性に流されすぎても、残虐で、貪欲で、不毛このうえない。
せめて双方の潤滑油として、罪のない遊びがないとね。
ささやかでも、飾りが無いと。
やんなっちゃうよね。
ならばこの父の語るほら話に、罪などあろうはずがなく。
ましてやその人生の盛り付けこそが、子への愛そのものであることは、子が受け止めたとおりであり。
目撃した観客すべてが、ラストで確信したとおりなのであーる。
余談だが、
というこの余談もまた、遊びとして受け取ってくれると、ありがたい。
主人公が森の沼で出会った全裸の美女。
きれいだったなぁ。
月下に青くぼおっと光ったその後ろ姿。
たわわなそのお尻。
闇生はなけなしの鼻の下を、ありったけ伸ばしたのであるが。
肝心な、彼女の前からの映像が、ない。
当然といえば当然で、それがまたティム・バートンのファンタジー映画の輪郭でもあるのだが。
クライマックスで、ほら話の登場人物が勢ぞろいして主人公を見送るシーンがあって。
あそこであたしゃ期待しちゃったよ。
やっとお顔がみれるのかと。
☾☀闇生☆☽