また、書く。
ポニョ。
宗介への『会いたい』が暴走して、大津波をおこしてしまう。
その津波は海辺の町を水没させるほどで、集落は水の底に。
住人はどうにか避難したように描かれているが、その被害の方に思いをはせて、気をもむ声もあるとかなんとか。
まずはその想像力に感心した。
それに対して、住人は無事に避難したのだからいいじゃんか。と弁護する声。
夢がねーなと。
くわえて、所詮は子供の映画。そこまで想像するこたぁないっつの、云々かんぬん。
んが、
だれあろう宮崎駿のことだ。んなこたぜーんぶ考慮の上ですよ。きっと。
床上浸水なら、根太が腐ってもう住めないだろうくらいのことはね。
ディズニーじゃないんだから。
子供の残酷からも、自然の残酷からも、目をそらしてませんて。
まず、津波をおこしたポニョ。
こいつの人間になるまえの正体は何者か、である。
母親が海の神。
(巨大な彼女が、海の中を仰向けで泳いでくるイメージは、こわいわ、美しいわ、笑っちゃいたいくらいだった)
カジモト(人?)の血が混じっているとはいえ、最終的に人間になることを選んだのだから、それ以前は人間ではないということ。
ならば神だ。
むろん人間神でも、動物神でもない。
自然神。
『もののけ姫』で提示されたシシ神のように、命を与えもするが奪いもするというのが、自然神で。
この国の自然の象徴、台風のように破壊もするが、恵みもする存在。
自然には意思はなく、ひいては因果応報も、善悪もないのである。
外国の神のように、つねに人間のことを中心に考えてくれている存在ではないのだ。
つまり、ポニョの大津波に破壊の意思はないだろう。
むろん、なにごとかを罰するためにでもない。
(会いたいから、会いに来た)
そして、そんな天災に悩まされながらも、恨まず、健気に生きるこの国の人々のたくましさ。それも映画のなかにはさらりと描かれていたとみたのだ。あたしゃね。
問題はポニョが最終的に人間になったということ。
今後、ものごころついたときに、自分がおこした津波の被害を思い出して、いったいどう感じるのか。
どう自分を納得させるのか。
監督はそれをポニョの成長への試練として用意しておいたのではないか。
ポニョが赤ちゃんにサンドイッチを分け与えた、舟の上のシーンがある。
あれが人間として生きていくための担保だと、監督は発言していた。
当初は宗介の血も、ハムも、奪ってばかりのポニョだった。
それが、自分のものを分け与える。
これは子供にとってはとてつもなく大きな成長で。
言ってみりゃ、事件で。
その優しささえあれば、きっとポニョは人間のなかでもやっていけるはずと。
そんな道の先に、監督は記憶の試練を置いたのではないかと。
ついでに書いておこう。
神から人へ。
ポニョの年齢は宗介と同じくらい、とあるからアバウト5歳。
その『会いたい』を『恋』だとしよう。
神が人になりたがる動機が、恋だったと。
それと似た構図を思い出した。
天使が人に恋をして、人間に。
ヴィム・ヴェンダース監督の代表作『ベルリン天使の詩』。
ずいぶんと昔に観たので、部分的なイメージ以外はもうすっかり忘れている。
なんだか観なおしたくなってまいりました。
以上、つらつらと。
あのね、
押井守が言ったのですよ。
映画は観ただけでは、また作っただけでは、映画にならないと。
語られて初めて映画になるのだと。
まことにもって同感である。
そこへいくとあたしゃ語り合える友もない。
よってここに、つらつらとぶちまけている次第で。
おはずかし。
だから雑談のようにまとまりがなく、おなじポニョの話題でもあっちゃこっちゃに書き散らしている始末なのであーる。
ゆるされよ。
しょせんは言い訳だが、甘えさせてくれ。
☾☀闇生☆☽