壁の言の葉

unlucky hero your key


「いったい何が言いたいんだか……」




 とある映画をお薦めして、
 その感想をうかがって返された言葉である。
 すまん。
 不覚にも、闇生は一瞬言葉を失ってしまったのだ。
 なぜって、
 映画が、
 明確な言い分を発信するのを目的としているだなんて、ねえ。
 いまどきそういう解釈で観ている人がいるのだと、あたしゃ驚いた。
 もし作り手に紋切り型で言い切れるようなハラがあるならば、
 なにも法外な予算と、
 膨大な手間暇と、
 大量の人間を使ってまでするこたあないのよ。
 光と音の、
 もしくは影と静寂の技術を駆使してまで、
 すったもんだすることもないの。
 

「地球愛」


 なんてポスターでも作って、それを街にばらまけばいい。
 

「自然を大切に」
 でも、
「野糞こそ自然だ」
 でも、
「口を閉じてガムを噛め」
 でも、
 好きにやればいいじゃんか。
 でありながら、
 そんな手段では言い切れないからこそ、映画なんでしょが。
 もっと言えば、
 言い切れないところに映画が潜んでいるんでしょが。


 ついでに言えば芝居だって、
 小説だってそうでしょがあ。
 

 友だちと拙い感想を言い合うのも、
 プロの評論に触れるのも、
 実はそれを踏まえてのことで。
 言い切れるところをわずかでも埋めていって、
 その言い切れなさの輪郭を浮き彫りにしたろという。
 そういう行為。
 (だもんで、頑として言葉にしない派も、それはそれでもったいない。)
 ましてや、
 作り手にも自覚できない個人的な情念やら、性癖やらが混入しているのが映画なのだから。
 

 とまあ、
 熱くなんなよ、というハナシですが。
 なんせ、
 おすすめしたのは黒澤の『羅生門』。
 彼は米国映画と米国ドラマの派手目なヤツしか見ない人ですから。
 何が言いたいんだか、などといいながら、自分の好きな映画についてはストーリーを順追いするだけ。
 感想も、解釈もない。
 あ、そうか。
 国策映画的なのも、いまだにありますものな。米国のは。
 ようするに、言いたいことありきで作られる映画。
 そう気付いたので、
 んで、
 まあ、
「ああ、そう」
 とテキトーに引きさがりました。 







 ☾☀闇生☆☽


 蛇足をかませば。
 音楽もそうですな。
 歌詞のみに重きを置いて、そこにのみ言いたいことがあるに違いないとする派。
 それで済むならば、
 わざわざ音楽にするこたないのっ。
 詩集で事足りるの。
 第一、安上がりじゃん。
 音と詞の足し算ではなく、
 つまり音が詞の説明に終始するばかりではなく、
 掛け算なり、
 化学変化なり、
 妖怪変化なりを起こすのが、音楽の面白さであり不思議。