壁の言の葉

unlucky hero your key

小説『ザ・ロード』ネタバレ感想。

ザ・ロード/早川書房



 コーマック・マッカーシー著『ザ・ロード早川書房


 以下はその感想である。
 人によってはネタバレと解釈されるかもしれません。
 そこはひとつ了承されたし。






 舞台は近未来。
 はっきりとは説明されないが、ひょっとしたら核戦争後の不毛の大地。アメリカ。
 ライフラインはとうに絶たれ、
 ケータイも、テレビも意味を成さない。
 燃料も、尽きた。
 海外からの支援はおろか侵略もないところからすると、この星自体が壊滅状態であると思われる。
 すでに国家は機能しておらず、よって法も、軍隊も、警察も無い。
 全滅、といっていい。
 しかし、その被害の全容を知る手立てすら、人々には無く。
 あるのは、終わりなく降りしきっている一面の灰。
 それだけ。
 よって太陽までもが、うつろだ。
 となれば神を疑い、その無慈悲を恨み、正義も、善悪の分別さえも薄れていってしまうに違いない。


 生きるが勝ち。


 生き残った人々は、生存すること、ただそれだけのために略奪、殺人、レイプにあけくれ、またそれに怯えて疑心暗鬼におちいっていくのである。
 秩序は、そこに微塵も残されていない。
 そんな形の、自由だ。
 挙句の果て、今日を生きるために人肉を食うことまでが、まかりとおるようになっている。


 それを忌避するための根拠は、すでに溶解しているのだから。


 この物語はそんな世界から出発するのである。
 明けない闇のために、地表は年々冷える一方で。
 このままでは生きられないと、
 ――男は、
 幼い子を連れて、闇の中を歩き始めるのだ。
 南へと。
 物語は、いたってシンプルだ。
 その父子がひたすら南を目指すロード・ノヴェルである。
 子は、この終末のさなかに生を受けた。
 そして絶望に抱かれて育った。
 よって海の青さを知らない。
 空の深さを知らない。
 音楽も、コカ・コーラも、友だちも知らない。
 すべては父親の話す記憶のなかにだけ存在していた。
 そう、御伽噺のようにだ。
 スーパーマーケットで手に入れたカートに荷物を積み、オートバイのバックミラーをそれに取り付けて、背後からの襲撃を警戒し、廃屋を見つければ食べ物はないかと漁る日々。
 野宿でつかうささやかな火も、賊に発見されるのを警戒して、匿わなければならない。
 泥水で渇きを癒し、
 干からびた果実で飢えをしのいで。
 しかし、それでも、彼だけは決して人を食おうとはしないのである。
 子のために。
 父として。
 なぜ?
 おそらくは、失われた世界の正義を体現してみせるために。
 


 
 さて、
 読みながら誰もが思うだろう。
 自分ならどうやってサバイバルするか。
 そして、はたして、できるか。
 これが日本だったらどうかと。
 極限状態で人肉を食う、というのならば有名な『ひかり苔』事件がある。
 けれど、あれは先に死んだ人を、残った者が食べた。
 『佐川君』の事件は、快楽殺人的なものだろう。
 そこへいくと、この物語のは…。


 それと、問題なのはこの『無法の世界』である。
 御破算。
 たとえば敗戦を生きのびたわが国の先達のなかには、こうおっしゃる方々がいる。
「戦後の焼け野原から」
 ようするにゼロから、艱難辛苦、その後の経済成長を勝ち得たのだと。
 その切り拓いてくれた道があってこそ、我々はぬくぬくと平和を享受できているのだから、これにはただただ敬服するほかない。
 そしてそれは我々の誇りでもあるわけだ。
 しかし、あえてこの小説に描かれた極限の『ゼロ』でシュミレーションしてみると、いわゆる戦後の焼け野原も、先人たちに脈々とリレーされてきた知恵に、守られていたのではないかと。
 その知恵もひっくるめて、国なのだが。
 言わば、焼け野原を無秩序にしない知恵。
 というのも「焼け野原」派がそれを声高に言うのは、どうも負けた国家へのあてつけばかりが強いように思うのだ。
 国家の助けなんぞなくとも、ゼロから起ったと。
 けれど、実際には負けても国家はあったし、警察も、郵便も、そして人々も、秩序立って動いていた。
 少なくとも略奪、強姦、殺人、テロ、人食いにはならなかった。
 ならば、そうさせなかったのは、何?
 もしも、国家も警察もライフラインも無い、この小説のような本当の焼け野原になったとしたら?
 そのうえで、善悪の境界線を『生きるため』というアニマルに溶解される事態に陥ったら?
 我々は何をよりどころとして正気を保とうとするのだろうか。
 その頼みの『何』とは何か。
 それは、どこから来るのか。
 あるいは、どうだろう。

 
 おなじアホなら踊らにゃ損、損。


 と、あっさりと狂気に身をゆだねてしまうのだろうか。
 言わずもがなの野暮天をかますが、この小説で父子が旅した無法の世界。
 それこそが、現代人の心象風景であると、譬えであると、そう考えるのも一興かと。
 そんな、神も仏も無い荒野で、人が、人で無くなるのを食い止めるもの。


「だれでもよかった」


 そんな暴走を食い止めるのに必要なものって、なんなのだろう。
 そして、われわれの多くが暴走せずに済んでいるのは、なぜなんだろう。
 この小説が提示したゼロに立って、考えてみるのはいかがでしょうか。





 ☾☀闇生☆☽



 付記。
 人食い。
 むろん、一部には映画『ゆきゆきて神軍』に描かれたような例外は、あったらしい。
 だとしても、
 いや、だからこそ、考える価値がそこにあるのでは。