ブレット・ラトナー監督による人気シリーズ三作目。
前二作と監督が代わったが、あたしはこの手の映画での作家性はあまり重要視していない。
だもんだから、コンビニで衝動買いしてしまった。
前二作はすでに観ていたので、とりあえず続きを確かめておきたかったという次第でござる。
遺伝子の突然変異によって特殊能力を持った種族を、この世界ではミュータントと呼んで人間と区別しているのだそうな。
彼らは人間に異端視されており、
疎外感を抱きつつも共存を模索している主人公側と、
それに反抗し人間に対決を挑む一派とに分かれている。
今回の話は、ミュータントを人間に戻してしまう薬『キュア』が開発されることから始まる。
『ミュータントの能力を奪う能力のミュータント』が発見され、そのDNAから抽出、開発されたのだという。
ミュータントに脅威を抱いていたもの達は、その薬によって彼らを根絶させ、安心を得たい。
また、自らの能力に疎外感を感じていたミュータントたちにとっては、それは救いの薬でもある。
つまりは、晴れて人間になれる、と。
しかしながら、ミュータントは病気ではない。
個性なのだから、治すとはけしからん。
そう考える一派も少なからず居るわけで。
更にはそれがゆえに、キュアを広める人間たちと対決しようとする派と、交渉して共存しようとする派にわかれており、ミュータント族も一枚岩ではない。
対決派は、一切のキュアを廃棄し、DNAのオリジナルとなったミュータントを抹殺しようとする。
交渉派(主人公側)は、ともかくもその争いを阻止しようとする。
前二作と同様、むろん『ミュータント』は譬(たと)えである。
それは人種や性同一性障害などに代表されるマイノリティー。
あるいは先天的・後天的な異能者。
ひいては、異なる者へ作用する日常でのいじめの構造。
それらの問題を抱えている米国だからこその根強い支持ではないだろうか。
もとより『合』『衆』の国である。
他者との相違の問題で、そりゃあもうごったがえしている。
その問題で国家が成り立っていると言ってもいいくらいに。
そのストレスのはけ口を戦争で団結させて外へ発散させるか、
あるいは音楽や映画で癒すか、
あの手この手の米国現代史が、それを物語ってもいるわけで。
とまあ、
あたくしの知ったかぶりはともかく、
だからこそ、娯楽SFでありながら根強い支持を得ているのではなかろうか。
またそれをお手軽なポップコーンムービーとして仕立て上げる手腕は、さすがは娯楽の本場といったところでしょう。
おもしろいのは、
先にも触れたが、
『ミュータントの能力を奪うミュータント』であるとか『触れた相手の生命を奪ってしまう能力』であるために愛し合うことができないミュータントの存在である。
前者は完全隔離されて孤独の底にいる。
独房でゲームをする日々。
その能力のために同人種の友人がつくれない。
後者は、キュアを受け入れることを選択して人間になる。
愛する人のために。
このように、ミュータント側を一枚岩にしない工夫が、この架空世界をおもしろくしているようだ。
ついでに、
いわゆる『能力バトル』について。
ライバルであったパイロとアイスマンが、今作で対決をする。
パイロは火を操る。
その手から炎の柱を噴き出して攻撃する。
対するアイスマンは氷を使う。
手から冷気を放射して対象を凍らせてしまう。
二人は戦場ではち合わせると、さっそく対決とあいなる。
対峙するやパイロは炎を、
アイスマンは氷をお互いの敵に向けて放射する。
この初戦は、ベタである。
が、それはかまわない。
炎と氷の柱が、双方の中間地点で衝突。
力は拮抗するが、悪役パイロが徐々に優勢となる。
パイロは炎で氷の柱を押し負かしつつ、アイスマンににじり寄っていく。
あやうしアイスマン。
ついには顔まで炎であぶられ、絶体絶命のピンチに。
と、
いい気になって寄りすぎたパイロの両手を握るアイスマン。
そして炎の放射口であった手から、一息に凍結させてオシマイ。
完勝。
…て、おいおい。
もうちょっとひねろうよ、と。
能力バトル花盛りの、
たとえばジャンプ系の漫画だったら、こんなバトルではボツでしょうに。
能力の長所や欠点、もしくは穴を使って、知恵を駆使して決着させなければ納得がいかない。
パイロもアイスマンも脇役ではある。
けれども肝心の主役級のバトルも、これといった知恵が発揮されないのだ。
もう、ごり押しオンリーで「ざっつ・おーる!」
けれども、そんなガチンコなベタさ加減も『合』『衆』に受け入れられるためのコツなのかもしれない。
☾☀闇生☆☽