「自分たちのサッカー」
要するに負けた試合は、それができなかったってことだ。
負けたから言ってる。
負けたけど自分たちのサッカーはできた、なんて満足するやつはいないと思う。
仮に、優勝しておきながら「自分たちのサッカーができなかった」と悔し涙を流すなら、本物だ。
見上げたもんだと思う。
世界(社会)は、ありのままにはやらせてもらえないからこそ、だろ?
だからこそ言葉やら体力やら能力やら振る舞いやらと自分を変えて、変えて、更新して、より『自在』に生き抜こうとするんだろ?
ありのまま、とかいうやつに正しさの尺度は関係ないよ。
殺人鬼だって、シャブ中だって、アル中だって、過食だって、自殺者だって、ありのままの挙句のことだったろう。
ありのままを制約することで犬猫は畜生からペットへと昇華するのだ。
人もまた同じ。
言葉や文法という一種の規律を身につけてはじめて、思考ができる。
制度を味方にしたり、いなしたりすることで人になっていく。
んでめでたくも考えることができるのだ。
ありのままとは何ぞや、と。
自分たちの?
自分らしく?
本当の自分?
自分というやつがそもそも掴めないというのに。
正しく完全に自分を掴むなんて、釈迦レベルかよ。
何さまなんだ。
それすなわち、自分でないものを完全に把握するということだぞ?
それができて初めて自分というやつの輪郭が掴めるのだろう?
しかもその自分はそこにありながら刻々と肉体的にも精神的にも代謝しつづけて、一瞬たりとも止まっていない。
炎のように。
河のように。
もっと率直に「理想」といったらどうだろう。
理想のサッカーができなかったと。絵に描いた餅でしたと。
絵画の本質は額縁にあり。 チェスタトン。
自由の最大最強の敵こそが、『ありのまま』なのである。
追記。
ぼくらは日々我が物顔で大通りを練り歩いている「自由」とやらのおみこしの、その馬鹿馬鹿しさの尻馬に、無批判に、感傷的に、且つぶしつけに甘えて乗っかってしまえるほどにおりこうさんではないし、弱くもない。
ましてや、そんな弱さにかまけきってしまえるほどに強いはずがない。
ぼくらは過度の束縛を嫌う。
と同時に度を越した自由を疑う。
☾☀闇生☆☽