壁の言の葉

unlucky hero your key

『ちゃった』すんな。

AFTER HOURS/菊池雅章



 昼から新宿へ出かける。
 ヨドバシカメラでインイヤー式のヘッドホンを購入するのだ。
 かつて使っていたシュアー社のを壊してしまって、以来、安いのでごまかしていたのだが、いかんせん遮音性が低い。
 とはいえ音漏れに関しては細心の注意を払っているから大丈夫、なはずである。
 なぜそう言い切れるか。
 しずかな室内で装着するまえに放置再生してみるのだ。


 どうだ。
 装着してもらえない気分は。


 それでも聞こえない音量ならば、まず問題はないかと。
 遮りたいのは外からの音だ。
 おしゃべりや執拗な車内アナウンス。
 坂本龍一のピアノソロシリーズなんか、あれで無残なものにされてしまう。(『/04』『/05』)
 それによって蒙る通勤電車でのストレスを考えると、やはり少し出費がかさんでも、いいものを買っておくべきなのだ。
 そう考えて、ちょっと奮発する気になったという次第。

 
 さっそくノイズキャンセリング・ヘッドホンのコーナーへ。
 すかさず店員が寄ってきて、あれこれと説明をし始める。
「これですとJ-popあたりの音には最適かと」
 あたしのどこを見てJ-pop好きと決めつけたのかわからない。
 わかりたくもない。
 否定するつもりはないが、我が60ギガのi-Podにはクラシック、ジャズはむろんのこと、タンゴも落語も入っておる。
 ごった煮が信条なのだ。
 ということにした。今した。
 しといてくれ。
 もとよりカテゴライズの下手くそな男でござるよ。ええ。
 それを逆手にとって、どーにかこーにか生きてきたんだ。
 要はジャンルや新旧ではなく、良し悪しだと。


「音楽には新しいも古いも無い。ただ、いいものと、そうでないものとがあるだけである」
 デューク・エリントン

 
 人間だってそういうこっちゃないすかね。
 と、そう店員に切り返したとしたら、アウト。
 暑さでイッちゃった奴と見なされただろう。
 コントやってる暇はないのだ。


 ともかくだ、
 ノイズ・キャンセリング型というのは、それ用に別バッテリーが必要なのね。
 その風情が無骨でいただけないのよ。
 自分のi-Podをつないで試聴してみたが、それほどすごいとは思わなかったし。
 音量もない。
 だもんだから、また前回同様にシュアー社のインイヤー式にしようと。
 フロア担当店員にノーサンキューを表明して、移動した。
 前に愛用していた型番はすでにそこになく、コーナーはがらりと様変わりしている。
 先述の坂本龍一のアルバムから『A Flower Is Not A Flower』と、ラベルのピアノ協奏曲G。第二の出だし(ピアノはミケランジェリ)をチェック。
 試聴してみて、これで一万円台ならと、即決した。
 今までの音量の七割設定で、小さな音まで鮮明だ。
 マニアではないし、あたくし程度はこれで充分なのだ。


 ここぞとばかりにピアニシモな演奏を。
 菊地雅章(jazz)のピアノソロをば。
 決して立て板に水、ではなく。
 訥弁の、
 にもかかわらず雄弁な老人のつぶやきのような。
 均一なリズムを無視したようにつむがれる、音の欠片。
 そこに立ち上る青い闇。
 聴きながら、紀伊国屋の写真集のコーナーを冷やかした。
 日本の路地裏ばかりを撮ったのが、そのピアノにはまって。
 いかん、俺、泣くぞ。
 あわてて、そこを去る。
 演劇関連(別役実)を二冊購入。


 『甲殻機動隊』をヴァージョンアップしたとかいう2.0が公開されているので気になったが、今日のところはスルー。
 演劇と違ってどうもこの手の商法は「あとだしジャンケン」の臭いが、否めない。
 優柔不断というか。
 かつてこれのオリジナルに、トラウマになりかけるほどの衝撃を受けた身としては、複雑なのだ。
 「あれは本当の私じゃなかったのよ」
 だなんて、今更言うなっつの。
 『愛』も『憎』も踏み越えて、あんなにしっぽりしたのに。


 黒澤明は言ったのだ。
 作品は子供が生まれるように世に出てくる。
 偶然や失敗、もろもろ背負って、その時代を狙いすましたように、その瞬間に生まれるべくして生まれてくる。
 それも含めて作品なのだから、生みなおしは、できない。
 だからもしリメイクするとするならば、原作に縛られてはいけない。
 別物として作れと。
 要するにリメイクすんなと。


 それで思い出した。
 『できちゃった結婚
 あのネーミング、いい加減どうにかなんないんすか。
 とりわけ『ちゃった』に、
 そのネガティヴに異議がある。
 たとえ不測の事態でそうなったにせよ、命を『ちゃった』という否定ニュアンスで片付けるな。
 大人の、
 当人同士の、
 刹那的な照れ隠しなんか二の次、三の次、五十三次ではないのか。
 その瞬間から、二人だけのものではなかろうに。
 『ちゃった』で、この世にひり出される立場は、どうなのよ。
 想像したことあんのかね。
 そして、その『ちゃった』風潮でその子を迎えるわれわれ社会の態度って、どうなのよ。
 へらへらっと。
 なんでもかんでも率直で、ありのままがいいだなんていう自己チュー楽ちん思考で『ちゃった』すんな。
 たとえ有体は『ちゃった』(否定)でも、子のために全力で肯定してみせる嘘が、方便が、愛だしょーが。
 歓迎されて生まれてきたという実感が、のちに、より良く生きる力になるんと違いますか。


 嗚呼、
 のたまっ『ちゃった』ね。
 すまん。
 かく云うあたくしの身の丈は、しがないエロDVD屋である。
 小さい犬ほどよく吠える、の謂いで、見逃しておくれなのだ。




 とりとめもなく、休日を綴ってみた。
 

 ☾☀闇生☆☽